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2月

2019年02月21日
「神戸をわすれない」と名付けた集会が世田谷にある。
言うまでもなく、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災のことだ。
今年開かれ、32回目の集まりが1月19日にあった。
大震災があってから24年目なので、32回とは年に2回開いたことがあることを意味する。
それにしても24年! 考えてみたら、これはすごい話だ。
ひとりの人間ならば生まれてとっくに成人しているし、干支も二順している。
これを毎年欠かさず続けてこられたのは、たった一人の人、
星野弥生さんという人が本気で「忘れない」と腹を決めていたからに他ならない。

阪神淡路大震災の時、ぼく自身は世田谷のプレーパークの活動として長田区に遊び場を立ち上げていた。
1月26日に現地入りし2月3日には遊び場を立ち上げていたので行動は早かったのだろうが、
被災地での遊び場づくりはこの時が初めてだったので、不安だらけだった。
広島の爆心地の写真をほうふつさせるような焼け野原となった現場を、ぼくは今でも忘れることができない。
同じ世田谷に住みながら、実は弥生さんとぼくはこの神戸で本格的に出会った。

震災の2年前、弥生さんはスペインの「ベンポスタ子ども共和国」のサーカス団を日本に招き、
神戸でその最終公演を行っていた。
その時に地元の受け入れを担ってくれた長田区の鷹取教会が被災し、その見舞いに神戸へ来ていたのだった。

ベンポスタ子ども共和国は「強いものは下に、弱いものは上に、子どもはてっぺんに」をモットーに、
身寄りがない子どもを含め、さまざまな事情の子たちが暮らす場所だ。
スペインのガリシア地方に小さいながらも独自の敷地を持ち、議会や首長も住民である子どもが選挙で決め、
通貨を発行し、食もできる限り自給自足を目指す共和国だった。
そこには運営のための外貨を稼ぐサーカス団があり、この共和国のモットーを体現する人間タワー
(大人が下に、大きい子が上に、小さい子は3メートル以上のてっぺんに)が最高の見せ場となっていた。
弥生さんは、その共和国から日本大使を任命されサーカス団を招いたのだった。

世界的にもおそらく例がないそのベンポスタ子ども共和国のドキュメント映画を、
一人の日本人映画監督、青池憲司さんが撮った。
その青池監督が「野田北部・鷹取の人びと」というタイトルで、
この大震災をその地域の人たちがどう乗り越え復活していくのか、
4年に亘って撮り続けていくことになる。
「神戸を忘れない」では全14部にも亘ることになったその記録映画ができるたびに鑑賞会を開き、
シンポジウムを行ってきた。
32回にも亘るその集まりには、こうした背景があるのだ。

しかしそれでも「忘れない」こと、ましてや、そのたび集会を開き続けることは難しい。
1月19日にぼくは出席できなかったが、野田北部からもパネラーとして駆け付けた方もいたそうだ。
今でも「忘れない」と声に出し、集まる人々が東京にいることを、その方はどう感じただろう。
来月丸8年を迎える東日本大震災、ことに原発「事件」、忘れないと改めて思う。

※管理人の都合で更新が遅れました。申し訳ありません。


1月

2019年02月21日
1月早々、熊本で再び地震が起きた。
和水(なごみ)町で震度6弱、人的被害が出なかったことは幸いだった。
和水町は福岡県と隣節しており、その福岡側に住む友人は
「自分のところでは全く揺れを感じなかったので驚いている」と話していたので、局地的な揺れだったのだろう。
2年前の熊本地震とは全く別の活断層だと言うことだが、
熊本地震が関係していないのかと言うことについては分らないらしい。

地震や火山の災害は時として想像を絶する被害を生むが、
それを単なる悲劇としてではなく、新たな社会創世に向けた好機と捉え動き出したところがある。
北海道で起きた地震で僕の友人が三面六臂の活躍をしたことを以前報告したが、
その彼が、役所に出向することになったと報告を受けた。
被害を受けた中学校の再建、しかも、小中一貫校としての新たな取り組みに関わるというのだ。

当人は幼稚園の園長であり学童クラブの学園長でもあるので、これで幼少中の子どもの育ちを
公教育+放課後と一貫して俯瞰できる教育環境が構想できることになる。
さらに、社会教育施設の建て替えにもかかわることになり、これで生涯教育分野もカバーできる。
そしてもうひとつ、地震を機に立ち上がった災害ボランティアセンターにもかかわり続けるというのだから、
オセロで言えば完全に四隅を押さえたようなものだ。

この町のこうした人材育成の機関(幼児教育、義務教育、生涯学習、ボランティア)を
総まとめにしてプロデュースすることを可能としたのは、まさに地震でガラガラポンされてしまったことがきっかけだ。
これをもし政治の力でやろうとしてもおよそ簡単ではないし、恐らく相当時間がかかる。
その理由は、様々なイデオロギーであったり利害の対立であったり個々の想いの違いであったりする。
それが一瞬にして破壊されてしまったがゆえに、守るものそのものがなくなってしまった。
しかも、多くの町民が同じような目に遭っているがゆえに
皆で何とかしなければ、という思いを持つことがより可能となっている。
反目している暇はないのだ。
同じ方向を向き、乗り越えなければならないのだ。

ピンチはチャンスとは、よく言われることだ。
けれど、それを実現することはたやすいことではない。
なぜなら、それを成すには胆力がいるからだ。
そして、その胆力は、それまでの考え方や生き方に大きく依拠する。
一朝一夕で身につくものではないからだ。
そして、それは「遊び心」と大いに関係している。
不屈という言葉には屈強な精神力を感じるが、そこにはなぜかプロセスへの喜びというニュアンスが感じられない。
どんな事態に出会ってもその中に一抹の希望を見出し、ささいであってもそれに喜びを感じ、大事に育てることができる。
こうした「プロセスを楽しむ力」は、遊ぶことで育てられる。

※管理人の都合で更新が遅れました。申し訳ありません。

12月

2018年12月12日
前回、北海道胆振東部地震でのぼくの友人の活躍に触れた。
その彼が話してくれたことに、いくつか大きく印象に残っていることがある。
あの地震で発電所がダメージを受け、直後から北海道全域が停電となった。
数日で復旧したところもあるが、復旧まで数カ月かかった地域もある。
北海道全域が、電気から切り離されたのだ。
そうするとどういうことが起きるか。

まず、テレビがつかない。
ニュース等から、この北海道で一体何が起きているのかという情報が入らない。
ネットは、というと、これも通信基地が停電しているので見られない。
スマホも、その時点での充電が切れたら使えなくなってしまうのだ。
つまり、情報通信から完全に遮断されてしまうことを意味している。

さらに、北海道は広い。
2時間くらいで着けるところは「近い所」だという。
その分、当然だがガソリンがいる。
そのガソリンを地下貯蔵室からくみ上げるポンプが動かない。
どこが無事で、どこまで買い出しに行ったら何が調達できるのか、皆目わからなくなったのだという。
電気をはじめとするエネルギーから、北海道は一時完全に孤立したと、彼は行った。
北海道が道ごと孤立!
考えてもみなかったことだった。

翻って、都市部でもし電気が使えなくなったら・・・
都市部は、狭い面積に大勢住んでいるから、住居は勢い縦に延びるしかない。
高層のマンションだ。
高層に限らず例えば4階くらいの低層でも、そこで使われている水は全て
一度ポンプでくみ上げられ、上からの水圧で流れるようになっている。
流しの水はもちろんだが、風呂もトイレもだ。
つまり、よほどグレードが高く自家発電の施設を持っているマンション以外、
電気が使えないだけで流しも風呂も、何とトイレさえも使えなくなってしまうのだ。

それどころではない。
高層階のマンションは今はもうほとんどIHだろうから、冷凍したものを温めることも困難だ。
もちろん冷蔵庫も使えないので、冷凍食品は早く食べないと腐ってしまう。
高層階に住んでいればいるほど、例えば水の配給を取りに行かなくてはならない時、
何十階分も階段の上がり降りをしなくてはならなくなる。
もっと大きく見れば、電車は動かず信号も止まる。
想像したらいくらでもこんなことは出てくる。
北海道のように広くはないので、車で脱出というのはあるかもしれないが、
電気が止まるという想定だけで暮らしが完全にマヒすることが見て取れる。

被災被害は、ぼくたちのこの「便利な暮らし」が大きくしているのかもしれない。
それでも来年は、今年のようにこんなに災害がなければいいと願ってしまう。

11月

2018年11月15日
「原稿が届いていない」
いつも僕からの原稿をブログにアップしてくれている友人からのメールで失念していたことに気付いた。
そして調べたら、毎月11日を目指し仕上げていた原稿を、先月も忘れていたことが分かった。
ちょっとした衝撃だった。あんなに「忘れない」と思っていたのに…
自分のそんな状況を知り、改めて「忘れない」と心に決めた。

9月6日にあった「北海道胆振東部地震」。
実はあの地震で、ぼくの友人が被災していたことを10日ほど後に知った。
友人はこども園の園長で、ちょうど園でお泊り会をしていた日に地震にあったという。
地震の被害地域をしっかり把握していなかったことを悔やんだが、
友人は、三面六臂の大活躍をしていたようで、地元では一躍時の人となっていた。
その友人から招聘を受け、先週末、安平町を訪ねた。
そこではみっつの役割を期待されていた。

ひとつ目は、もともと震災前からプレーパークの準備を進めていたので、
この震災を機会に一気に計画を進める、そのきっかけづくりとしての役割。
ふたつ目は、安平町はCFC(ユニセフ協会が先導する「子どもにやさしいまち」事業の略称)
モデル自治体にも名を挙げており、ぼくはそのスタートアップイベントの講演者であり
また日本ユニセフ協会CFC委員会委員でもあるという役割。
そしてみっつ目は、もちろん子どもにとって遊ぶことがいかにその育ちに不可欠であるかを
しっかり町の人に伝える役割だ。

これらを、阪神淡路大震災、東日本大震災での遊び場づくりで経験したことも交え話し、気仙沼の遊び場のDVDも流した。
町長、教育長の両名も講演を最後まで聞いてくださり、
「この町が向かっている方向に間違いがないと確信できた」と話してくれた。
とても心強い言葉だった。

講演後、プレーパークとして予定している里山で、2時間だけのプレーパークを行った。
子どもや町の人の拠点にしたいとして開かれた、小さな広場。
その両側のがけが崩れ、木がなぎ倒されていた。
友人の園長はそれを、「片付けずに地震のことを学ぶジオパーク的に使っていきたい」という。
とにかく木がなぎ倒され折り重なっているのだから、それはそのまま遊具にもなる。
素晴らしい発想だと感じた。

そう、地球は生きている。
生きているから地震が起き、火山が爆発し、津波が生じる。
地震や火山は地下深くのマントルが対流し、地殻が動くことで起きる。
この対流は電気を生み、地球に地場をつくり、太陽風からあらゆる命を守っている。
そうした「いのちの連鎖」を、遊び場で知ることができる。
自然は命を奪い、守る。
里山で思い切り遊び、いのちに不思議と畏怖と奇跡を感じる子どもに育ってほしい。


※アルバムに写真があります(2018/11

9月

2018年09月15日
災害が続いている。
ここに、これらをどう書いたらいいのかわからないままで数日が経ってしまった。

6月18日に起きた大阪北部地震。
ブロック塀が倒れ、小学生が下敷きとなり死亡したことが大きく報道され、
調べたら相当量の危険ブロック塀が学校にもあることが判明した。

7月上旬は西日本を襲った集中的な豪雨。
「平成30年7月豪雨」と名付けられたこの豪雨は、広島をはじめ岡山、山口と、その被害は各所に亘り、
土石流等により倒壊した家は数知れずあり、壊滅した集落や水没した町、その死者は224人を数えた。

8月上旬には台風13号が東日本を縦断。
山形で河川が氾濫したことを始め、農産物等東北の各所に大きな爪跡を残した。

8月下旬には台風19号、20号が続けて列島を直撃した。
奄美地方を直撃した19号は観測史上最大の風速と、これも観測開始以来初めての
5日間連続台風発生という記録となった。
20号は徳島から斜めに和歌山を横断、風車の倒壊や河川の氾濫ばかりでなく、記録的な大雨を各所で観測した。

そして9月に入り、4日には今シーズン最強と言われた台風21号が四国、関西圏を直撃した。
高潮とも相まって完全に冠水した関西国際空港と連絡橋へのタンカー激突により、空港は一時完全に孤立化した。
国際空港であるがゆえに、その影響は海外からのまた海外への客はもちろんのこと、
それのみならず輸出入へも大きな打撃を与え経済にも深刻な影響を及ぼす可能性を指摘されているが、
9月14日現在、まだ完全復旧には至っていない。

更に6日には北海道でM6,7の地震が発生。
震度は7を記録した地域もあるこの地震は、発電所の停止による道全域にわたる停電が発生。
いたるところで起きた大規模な土砂崩れ、断水は、これもまだ完全復旧のめどが全く立っていない。
加えて、この夏は「もはや災害」と予報官が伝えた猛暑でもあった。
観測史上最高気温を伸ばし、熱中症による死者は7月だけで130人を超えていた。
台風発生の数も例年の1.5倍と言われていたが、この猛暑がそれと関係していることを指摘する予報官も多かった。

こうして記録するだけでほぼいつも書いている字数に近くなるほど、災害続きの夏だった。
これだけ各所で災害が起きれば、当然、知り合い、関係者の中に被災者がいる方も多いのではないだろうか。
ぼくもその一人だ。
阪神淡路大震災に始まり、中部地震、中部沖地震、東日本大震災、熊本地震、
ほかに水害にあった場所にも出かけてきた。
そのたびさまざまな思いを抱いてきたが、今回倉敷市真備の友人の家の冠水とその現場に入り、
大切な人が被災するとこんな気持ちになるのか、と言うことを初めて実感した。
いのちがある、それだけでこんなにうれしいことも。
ぼくも他人事ではいられない、改めてそう思うことができた。

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