まだまだ暑い日が続く。
9月に入ってもう1週間だというのに、天気予報は、各地で30度を超える予報だ。
東北は涼しい、それが幻想だということをこの夏に各所で実感した。
東北6県のうち、この夏には青森、秋田を除く全県を訪れた。
陽射しが、とにかく半端ではなくきつい。
陽射しの中にいると、蒸発してしまうかもしれないと思うほど意識が朦朧としてくる。
しかし、東京と違うのは、木陰のしのぎやすさだ。
身体の中にまで、一気に風が駆け抜ける。
木陰も夜間もほとんど差がないアスファルトとコンクリートに塗り固められた東京の街が、
どれだけ蓄熱しているのかが分る瞬間だ。
車で走っていると、不意に仮設住宅郡に出会う。
仮設住宅は、決して一様ではない。
それを立てる工務店の技術や、どこのメーカー製か。
もちろん自治体によってかけるコストそのものが違うのかもしれないが、その差は激しい。
真冬には、結露で床がぐずぐずに濡れたところもあったという。
床が濡れる、真冬にそんなところでどうやって眠るのだろう。
隙間風がいたるところから吹き込み、室内でも水が凍るというのは当たり前だったようだ。
ビニールとガムテープで、その隙間風を防いでいた仮設もいくつも見た。
そんな冬の状況をわずかでも知っていると、
この真夏の陽射しは、仮設を内部から焼いていないかと心配になる。
東北は、住む家は一戸建てが標準だ。
アパートや集合住宅は都市部には見られるが、少し離れると基本が一戸建てとなる。
広さにおいて同等に確保されているなどということはとうていありえない仮設住宅で、
人々や家族は、一体何を感じながら日々を送っているのだろうか。
福島を車で走っていた時、まったく人の気配が感じられない町であることにふと気づく。
昼は家々の窓はどこもカーテンがかかり、夜は窓に灯りがひとつも点っていない、
そんな集落だ。
慣れない場所のため、目的地を設定し、カーナビに従って走る。
不意に現れる、「ここから先警戒区域」「立ち入り禁止」の、道路を封鎖する看板。
道路そのものは通れても、線量が高いためか「乗降禁止」されていたエリアもある。
そうした場所に見る風景は、広大な草原。
何も知らなければ、美しいほどの広大な草原。
おそらく、被災前は田んぼだったのだと思う。
ここで農家の人たちは米を作り、酪農をし、土を耕した。
農家の人に、「一年放置すると、その田んぼを元に戻すのには10年かかる」のだと聞いた。
この夏は、2年目だ。
持ってはいるが、持っては入らなかった線量計。
草原を前に、空気は澄み香る風も清しいものであったことが、なお悲しみと怒りを誘う。
もし放射線に色が付いていたら、匂いが付いていたら、まだどれだけ納得できただろう。
農の人にとっては命そのものであった「土」、それが、死の灰で汚染されたのだ。
その無念さは、おそらく想像の域を超えている。
目に映る風景は、未だに美しいふるさと。
しかし、そこは帰ることがかなわないふるさと。
人の五感では感知できないこの史上最強の毒物は、国策で、今も製造され続けている。
警戒区域が解除され、家に戻った人がいる。
その人は、苦労の末、自然農法で野菜が収穫できるようになり、
それを素材で自営のレストランを経営していた。
ようやく評判を得たころだという、原発が爆発したのが。
家には戻っているが、自慢の野菜は2度と出すことはない。
「悔しい!」と、その人は目を腫らした。
原発を止めることが与える産業界への影響、それはそうかもしれない。
けれど、放射能が環境に与える不可逆的な影響は、実は農業などの第一次産業がこうむる。
「産業界」と言ったときに代表されるのは、製造業などの第二次産業だ。
そして、流通業などの第三次産業でもある。
自国でその国民が食べていかれる自給率が低い日本では、食糧は、輸入が主となっている。
もはや、第一次産業の衰退を国家の危機とは見なしていないのかもしれない。
そんなことしている場合じゃないだろ!と、おそらく国民の多くが感じている政治の世界。
官邸への「原発反対」のデモは、原発の今後の方向に何がしかの影響を与えたのだろうか。
そうだとしたら、こんなにうれしいことはない。
けれど、最後に決めるのはやはり議会であり政治だ。
原発を稼動して、相変わらずプルトニウムを精製したがる可能性は、決してまだ低くない。
今週も、週末に岩手県の大船渡に行く。
そして、そのあと陸前高田に立ち寄り帰るつもりでいる。
震災後に被災地で始まった遊び場が、そこにはある。
今月の11日、この日はプレーパークの合宿中だ。
そこにいる人と共に、ふるさとを歌いたい。
9月に入ってもう1週間だというのに、天気予報は、各地で30度を超える予報だ。
東北は涼しい、それが幻想だということをこの夏に各所で実感した。
東北6県のうち、この夏には青森、秋田を除く全県を訪れた。
陽射しが、とにかく半端ではなくきつい。
陽射しの中にいると、蒸発してしまうかもしれないと思うほど意識が朦朧としてくる。
しかし、東京と違うのは、木陰のしのぎやすさだ。
身体の中にまで、一気に風が駆け抜ける。
木陰も夜間もほとんど差がないアスファルトとコンクリートに塗り固められた東京の街が、
どれだけ蓄熱しているのかが分る瞬間だ。
車で走っていると、不意に仮設住宅郡に出会う。
仮設住宅は、決して一様ではない。
それを立てる工務店の技術や、どこのメーカー製か。
もちろん自治体によってかけるコストそのものが違うのかもしれないが、その差は激しい。
真冬には、結露で床がぐずぐずに濡れたところもあったという。
床が濡れる、真冬にそんなところでどうやって眠るのだろう。
隙間風がいたるところから吹き込み、室内でも水が凍るというのは当たり前だったようだ。
ビニールとガムテープで、その隙間風を防いでいた仮設もいくつも見た。
そんな冬の状況をわずかでも知っていると、
この真夏の陽射しは、仮設を内部から焼いていないかと心配になる。
東北は、住む家は一戸建てが標準だ。
アパートや集合住宅は都市部には見られるが、少し離れると基本が一戸建てとなる。
広さにおいて同等に確保されているなどということはとうていありえない仮設住宅で、
人々や家族は、一体何を感じながら日々を送っているのだろうか。
福島を車で走っていた時、まったく人の気配が感じられない町であることにふと気づく。
昼は家々の窓はどこもカーテンがかかり、夜は窓に灯りがひとつも点っていない、
そんな集落だ。
慣れない場所のため、目的地を設定し、カーナビに従って走る。
不意に現れる、「ここから先警戒区域」「立ち入り禁止」の、道路を封鎖する看板。
道路そのものは通れても、線量が高いためか「乗降禁止」されていたエリアもある。
そうした場所に見る風景は、広大な草原。
何も知らなければ、美しいほどの広大な草原。
おそらく、被災前は田んぼだったのだと思う。
ここで農家の人たちは米を作り、酪農をし、土を耕した。
農家の人に、「一年放置すると、その田んぼを元に戻すのには10年かかる」のだと聞いた。
この夏は、2年目だ。
持ってはいるが、持っては入らなかった線量計。
草原を前に、空気は澄み香る風も清しいものであったことが、なお悲しみと怒りを誘う。
もし放射線に色が付いていたら、匂いが付いていたら、まだどれだけ納得できただろう。
農の人にとっては命そのものであった「土」、それが、死の灰で汚染されたのだ。
その無念さは、おそらく想像の域を超えている。
目に映る風景は、未だに美しいふるさと。
しかし、そこは帰ることがかなわないふるさと。
人の五感では感知できないこの史上最強の毒物は、国策で、今も製造され続けている。
警戒区域が解除され、家に戻った人がいる。
その人は、苦労の末、自然農法で野菜が収穫できるようになり、
それを素材で自営のレストランを経営していた。
ようやく評判を得たころだという、原発が爆発したのが。
家には戻っているが、自慢の野菜は2度と出すことはない。
「悔しい!」と、その人は目を腫らした。
原発を止めることが与える産業界への影響、それはそうかもしれない。
けれど、放射能が環境に与える不可逆的な影響は、実は農業などの第一次産業がこうむる。
「産業界」と言ったときに代表されるのは、製造業などの第二次産業だ。
そして、流通業などの第三次産業でもある。
自国でその国民が食べていかれる自給率が低い日本では、食糧は、輸入が主となっている。
もはや、第一次産業の衰退を国家の危機とは見なしていないのかもしれない。
そんなことしている場合じゃないだろ!と、おそらく国民の多くが感じている政治の世界。
官邸への「原発反対」のデモは、原発の今後の方向に何がしかの影響を与えたのだろうか。
そうだとしたら、こんなにうれしいことはない。
けれど、最後に決めるのはやはり議会であり政治だ。
原発を稼動して、相変わらずプルトニウムを精製したがる可能性は、決してまだ低くない。
今週も、週末に岩手県の大船渡に行く。
そして、そのあと陸前高田に立ち寄り帰るつもりでいる。
震災後に被災地で始まった遊び場が、そこにはある。
今月の11日、この日はプレーパークの合宿中だ。
そこにいる人と共に、ふるさとを歌いたい。