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3月

2020年03月12日
今月11日は東日本大震災から9年、さらにさかのぼること75年前の10日は、東京大空襲で10万人以上が亡くなった日だ。
そして今、社会は残念なことに「新型コロナ騒動…事件」で右往左往している。
今回は今までになく長い文になるが、ぜひお付き合いしてくださればと思う。

3月2日から春休みにかけて学校を全国一斉休校する、その要請を総理が発表したのがわずか4日前の2月27日だった。
これはもう、単なる騒動ではなく、事件だといえる。

遊ぶことの重要性を伝え続けた身からすれば、学校は子どもの最も重要な時間を独り占めしており、その育ちに貢献もしただろうが悪影響も多大に与えてきたと考えている。
日ごろから少なくとも小学生は午前授業で十分と思っているので、「学校に行かないでいい日」ができることは、単純に歓迎したい。
けれどそれは、子どもが遊ぶことの価値を認めるが故である必要があり、今回の要請はそんなこととは真逆の、もう権力を持つ者の単なる思い付きとしか言いようがない状況だと感じている。。

新型コロナウィルスがこれだけの騒動になったことには、様々な要因が考えられる。
昨年暮れに中国で感染が確認されて以来、いまだにその正体がつかめていないこと。
感染が瞬く間に国境をまたぎ、今では世界中に広がりを見せていること。
その感染ルートが、感染の始まり以来はっきりとつかめていないこと。
症状が出ていない人でも、陽性の人が発見されていること。
正体がわからないため、発症後の治療方法がわからないこと。
発症した人から何人もの死者が出ていること。

マスクはまだしも、トイレットペーパーや食料品の買い占め等、根拠のない行動は社会不安の表れといえる。
不安と心配、この入り混じった心情が相乗効果でさらに高まっていく。
これは、9年前の東日本大震災の際も見られた現象だ。

「心配」と「不安」は、実は似て非なる心の状態だといえる。
[心配]には根拠がある。
今回で言えば、その根拠は「感染した時に重篤化し、特効薬がなく死に至る人もいる」ということだ。
この心配の根拠に関しては、感染を防ぐためにできることをする、という答えがある。
新型であっても「コロナ」というウィルス種であることは特定されている。
あのサーズもマースも同じコロナ種だが、このコロナウィルスの仲間は最も外側が膜で包まれている。
エンベロープと呼ばれるその部分が増殖には不可欠で、これが壊れると不活性化し増殖できない。
このエンベロープはアルコールや石鹸に弱く、なので手洗いが盛んに奨励されている。
マスクは、今のところ飛沫感染すると言われているコロナを人にうつさないための効果は見込めるが、感染を防ぐことへの期待値は低い。
こうした今わかっている事実を考えると、今できる心配の解消策は非常にシンプルだとわかる。
アルコールや石鹸による、手洗いだ。
それ以外の有効策は、例えば屋内の場合、ウィルスが漂っている可能性がある空気を滞留させないために換気をする、体と体が触れ合う空間に長くいない、そもそも空気が滞留することがない屋外を選ぶ、ことくらいだろう。
しかしそれらをすべて実践したとして、それでも残るとすれば、それは「心配」ではなく「不安」である可能性が高い。
不安を全く持たない人はいないかもしれないが、不安は、一人一人の感度によって全く異なって迫ってくる。

不安の感度は、その人が育ってきた背景や経験、現在の生活の安定度、また、将来への見通し等すべてが要素となりえ、それらが絡まりあって高まっていく。
なので、手洗いをそこそこしたらあとは罹るかどうかは時の運、くらいに思える人もいれば、手を頻繁に洗いいくらマスクを買いだめしても不安な人もいる。
それ自体に良いも悪いもないが、心配と不安が混然一体化していないかを検証することは大事なことだ。
というのも「不安」は「心配」と違い、手洗いをする等の具体的な答えがなく、自らの不安と対峙する以外、軽くする方法はないからだ。
そして、この「不安」には厄介な側面がある。
自分ではいかんともしがたい思いのひとつでもあるので、この不安を取り除いてくれるのなら藁にもすがる場合がある、ということだ。
あの、社会的には成功者と思えるようなカリスマバンドであるエックスジャパンのボーカルでさえ、得体の知れない不安に打ち勝てず洗脳されてしまったように、不安は時として心を蝕んでしまう。

いきなりではあるが、第2次世界大戦を引き起こした、ドイツ・ヒットラーのナチズムやイタリア・ムッソリーニのファシズムを「全体主義」と呼ぶ(日本の軍国主義は若干性格を異にするがこれに含むこともある)が、あの破壊的な政治が国民の大歓迎を受けて発足した背景には、この得体のしれない社会不安が民衆の多くに蔓延していたからと、歴史の検証は指摘している。
個々人の力ではぬぐえない不安が社会を覆い、この現状を何とか打破してほしいと多くが感じていたところに、あの「強い指導者」たちが現れた。
その強力な指導者の下で一致団結すれば、現状が打破できる!国民は熱狂して彼らを迎えた。
国民の大勢がそう動いたことで「全体主義」が生まれた、とする分析は、一人一人がわが身を振り返っても心当たりがあるのではないだろうか。
自分はそう思わないが、みんながそう言うなら別に事を荒立て孤立したくない。
みんなと同じであることを重視し空気を読まない人を批判する今の風潮は、その意味でかなり危険な状況をすでにはらんでいるのだろう。

特別措置法に盛り込まれた「緊急事態宣言」、この状況ではなかなか真っ向から反論し辛い「感染防止のため」という文言。
それも総理の一言でそれを発動できるという、強い権限。
個人の権利を大幅にしかも強制的に制限することができるこの法律は、確かに強い力の象徴といえる。
けれど、総理が法的な根拠もない中で出した「要請」にこれだけ粛々と協力する日本の中で、こうした強権的な法律が本当に必要なのか、それに関して全く議論が進んでいない。
そもそも冒頭に書いた学校の一斉休校だが、インフルエンザ等の感染症の場合、学校で感染が広がった結果学級閉鎖や学校閉鎖が行われることが通常だ。
けれど、いろいろ調べているのだが、新型コロナがクラスに蔓延し学級閉鎖に追い込まれたという例は、中国や韓国からも、どこからも報告されていない(日本語ニュースしか読んでいないが)。
子どもの発症は屋内を中心に大人からうつされていることがほとんどで、子ども同士がうつし合うといった報告自体が見当たらないのだ。
つまり、この新型コロナは、基本的に子どもは罹りにくいのではないのだろうか。
それなのに全校一斉休校を要請し、緊急事態宣言ができるようにわざわざした。
しかもそのどちらも、専門家からは全くその必要性は指摘されていないという。
それどころか、むしろ首をかしげる専門家すら少なくない。
それを指導力と呼ぶのか、政権濫用による権力の誇示と呼ぶのか、その指導力に大きな期待を寄せて任せてしまうのか、危険な側面もあると自分自身の頭で考えようとするのか、自分の中の不安分子をしっかり見つめながら、一度立ち止まって考える必要がある。

長くなった最後に、子どもや親に呼びかけたい。
この状況においては、「絶対に感染しない」予防方法はそもそもないと考える。
大切なことは、そのリスクをいかに下げられるか、と言うことと、そのリスクと我慢を強いることで起こりうるマイナス面を比較したとき、本当に我慢を強いることが適切か、という観点だろう。
ぼくが進めてきた冒険遊び場は、屋外で雑菌だらけだ。
舞い立つ土埃、地べたをハイハイする、汚れた手を口に運ぶ、どろを口にする子も珍しくない。
ここで遊ぶ子は日ごろから免疫をフル稼働だ。
だから、ここで子育てを始めた親は、口をそろえて言う。
うちの子は風邪をひかなくなった、と。
それともうひとつ。
雑菌だらけということは、細菌やウィルスにとっても新たに縄張りを獲得することが難しい。
微小な世界でも縄張り争いは激しく、新参者の細菌やウィルスは簡単には居心地のいいスペースを獲得できない。
むしろしっかり殺菌してしまうから、がら空きの縄張りに大喜びして新参者が飛び込み繁殖してしまう。
なので、ドアノブは殺菌よりどろを塗りたくれ、と僕は言いたいくらいだ。
免疫力を高める上では太陽の日を浴びることも不可欠で、屋外での遊びは最高の効果を発揮する。
それでも、罹るときには罹ることはあるが、屋内でも罹患するリスクはなくならない。
ならば、親子ともども屋内に閉じ込もりストレスをため、そしてストレスは免疫を下げ、という悪循環のでに陥るよりずっとましではないか。
外側の危険を取り除くことも大事だが、完璧になど不可能な以上内側から危険をはねのける力を蓄えること以上に重要なことはない。
ことに温暖化の中どんな病原体がこれからも現れるかわからない時代だからこそ、免疫力という内側こそ鍛えておく必要があるし、ストレスに強い心を養っていく必要がある。
遊ぶことが、その力を育てる上で不可欠であることを改めて知ってほしい。

3月10日・東京大空襲、11日・東日本大震災とそれに続く原発事件、それ以外ここ数年を見ても大きな出来事で熊本地震、九州北部豪雨、西日本豪雨、北海道地震、台風による大水害等、人は多くの困難に直面してきた。
東日本大震災の被災者は、9年間、その問題と向き合い続けてきている。
問題が起きて数か月のコロナとは、比較にならない苦闘の時間だ。
子どもの希望のためにも、大人は我をしっかり保ち、前を向いていたい。