7月の初旬である今、東京は肌寒いほどの日々が続いている。
しのぎやすい日々で、一時の打ちのめされるような蒸し暑さがウソのようだ。
この気温になったのは、あの「災害級の大雨です!」とニュースが連日報道した、九州、中国、四国地方の大雨の後からとなる。
あの連日の報道はすごかった。
とにかく「災害級の大雨」、「避難勧告が出る前から自分で判断を」、「自分の命は自分で守ってください」といったフレーズが毎日、朝から晩まで各局で報道されていた。
ニュースキャスター自ら、「不安をあおるつもりではない」「逆にこういう言葉を繰り返していると視聴者は耳が慣れてしまって危機感を持たなくなるのでは」「これで結局何も起きなければ無駄足を踏んだと思われるかもしれない」とコメントしていたので、弊害についても意識されていたのだと思う。
ただ、それでも気象庁が特別記者会見まで開き、とにかく警戒を呼び掛けるといった異例の対応に、何かあってからでは遅い、という教訓がにじみ出ていたように思う。
ほぼ同じ時期、2年続けてこの国は大水害にあった。
一昨年前には、福岡県朝倉市、東峰村を中心に大きな被害が出た。
そして昨年は、記憶に新しい西日本豪雨。
死者行方不明者は200人以上、14府県という広域に及び、いまだに避難を余儀なくされている人も2千人以上いるのだという。
この時も気象庁は特別記者会見を開いたが、気象庁には避難勧告、ましてや避難指示を出す権限がない。
勧告や指示を出す権限を持つのは行政、自治体だ。
予想されていながら、遅れた勧告、指示に、多くの犠牲を出した。
2年続けて起きた水害に、おそらく気象庁は相当忸怩たる思いを抱いたのではなかろうか。
もちろん、避難勧告や指示が安易に出されていいわけはない。
けれど、暗くなってから出されても、あるいは冠水や土砂崩れが起きて交通や道路が寸断されてから出されても、もう逃げる手立てはふさがれてしまう。
レーダーなどで相当精度が上がってきた今の予報なら、短期的な集中豪雨を予測し、予報するのは決して間違ってはいないのだろうと思う。
それにしても、だ。
今回、西日本豪雨での降水量の2倍を上回るほどの降水量を記録した結果、避難勧告、指示を合わせると一時は100万を圧倒的に超える人がその対象となった。
それだけの人が避難できる場所や食料を、果たして行政だけで準備できるものなのだろうか。
50年や100年に一度、などと言われる規模の災害が、立て続けに起きている。
避難施設や備蓄品、ルート確保など、従来の政策の見直しを図るときなのでは、と強く思う。
しのぎやすい日々で、一時の打ちのめされるような蒸し暑さがウソのようだ。
この気温になったのは、あの「災害級の大雨です!」とニュースが連日報道した、九州、中国、四国地方の大雨の後からとなる。
あの連日の報道はすごかった。
とにかく「災害級の大雨」、「避難勧告が出る前から自分で判断を」、「自分の命は自分で守ってください」といったフレーズが毎日、朝から晩まで各局で報道されていた。
ニュースキャスター自ら、「不安をあおるつもりではない」「逆にこういう言葉を繰り返していると視聴者は耳が慣れてしまって危機感を持たなくなるのでは」「これで結局何も起きなければ無駄足を踏んだと思われるかもしれない」とコメントしていたので、弊害についても意識されていたのだと思う。
ただ、それでも気象庁が特別記者会見まで開き、とにかく警戒を呼び掛けるといった異例の対応に、何かあってからでは遅い、という教訓がにじみ出ていたように思う。
ほぼ同じ時期、2年続けてこの国は大水害にあった。
一昨年前には、福岡県朝倉市、東峰村を中心に大きな被害が出た。
そして昨年は、記憶に新しい西日本豪雨。
死者行方不明者は200人以上、14府県という広域に及び、いまだに避難を余儀なくされている人も2千人以上いるのだという。
この時も気象庁は特別記者会見を開いたが、気象庁には避難勧告、ましてや避難指示を出す権限がない。
勧告や指示を出す権限を持つのは行政、自治体だ。
予想されていながら、遅れた勧告、指示に、多くの犠牲を出した。
2年続けて起きた水害に、おそらく気象庁は相当忸怩たる思いを抱いたのではなかろうか。
もちろん、避難勧告や指示が安易に出されていいわけはない。
けれど、暗くなってから出されても、あるいは冠水や土砂崩れが起きて交通や道路が寸断されてから出されても、もう逃げる手立てはふさがれてしまう。
レーダーなどで相当精度が上がってきた今の予報なら、短期的な集中豪雨を予測し、予報するのは決して間違ってはいないのだろうと思う。
それにしても、だ。
今回、西日本豪雨での降水量の2倍を上回るほどの降水量を記録した結果、避難勧告、指示を合わせると一時は100万を圧倒的に超える人がその対象となった。
それだけの人が避難できる場所や食料を、果たして行政だけで準備できるものなのだろうか。
50年や100年に一度、などと言われる規模の災害が、立て続けに起きている。
避難施設や備蓄品、ルート確保など、従来の政策の見直しを図るときなのでは、と強く思う。
はっきりした日付の記憶はないが、つけていたテレビが「福島の子どもの甲状腺がんの増加」を報じたことがあった。
別のことをしていたさなかのことだったのでそのニュースに集中できなかったのだが、それに対し、
福島県も福島県立医科大病院も、原発との因果関係は認められないとの方向を改めて打ち出した、とその報道は伝えた。
あまりにひどいのでこのニュースの関連を調べていたら、以下のウェブサイトを見つけた。
「福島原発事故の真実と放射能健康被害」hppts://www.sting-wl.com/
2014年公開、最新の更新は今年4月17日となっているので、この件を長く追ってきたことが分かる。
書かれている内容は膨大で、しかも多岐にわたっており、ぼく自身も全ては読み切れていない。
ただ、「2018年9月30日時点で県は206人の甲状腺がん及びその疑いの子どもがいると発表」した、と書いている。
けれど読み進めると、カウント漏れがありさらに12人の患者がおり、もっと読んでいくと、
福島県立医大が隠ぺいしたと思われる子どもがほかに最低でも6人いるのだという。
このウェブサイトのレポートを読み込んでいくと「私」という一人称が散見する。
使われているデータは、福島県が発表しているものはもちろんだが国立がんセンターによる日本の患者数や、
時に日本のものばかりではなくチェルノブイリの事故後のデータとの比較もある。
これだけのものをもし個人が調べ作ったウェブサイトだとしたら、その信念と調査力には頭が下がるとしか言いようがない。
副題に「なぜ福島県は多発する甲状腺がんの子どもたちを…次々と隠すのか?」とあり、
その背景には深い憤りがあることはおそらく間違いないのだろう。
こうした人の行動、視点が巨大な権力を穿ち、一点の光を差し込ませるのかもしれない。
このレポートはさまざまな可能性を考え、問題を投げかけている。
本来なら県民を守らなければならない県。
県民の中でも将来の福島をつくる子どもは宝物のはず。
その子どもの健康状態をしっかり調べようともせず、甲状腺がんの罹患数も把握できていない。
原発の問題と向き合う気がさっぱりと見えてこない県は、危険地域への住民の帰還を求め、
帰らない場合は補助金を出さない措置をとっている。
患者の命こそ救わなくてはならないはずの医科大病院。
原発事故の後、ヨウ素を求める県民たちに「ヨウ素を飲む必要はない」と告げたのだという。
そして、病院関係者とその家族にだけヨウ素を渡し、その口止めまでしたことが報道された。
そのうえ、甲状腺がんと原発には関係がないと言い切る医師たち。
福島の人たちの中には原発で家も仕事も奪われ、一家離散し、子どもはいまだに外で遊ぶこともはばかられる。
そんな大変な状態が、今も続いている人もきっと少なくないと思う。
そんなときに、本当なら頼りにしたい行政と病院。
担当している彼らは、いったい自分の役割を何だと考えているのだろうか。
人としての顔が全く見えてこないのは、つらすぎる。
別のことをしていたさなかのことだったのでそのニュースに集中できなかったのだが、それに対し、
福島県も福島県立医科大病院も、原発との因果関係は認められないとの方向を改めて打ち出した、とその報道は伝えた。
あまりにひどいのでこのニュースの関連を調べていたら、以下のウェブサイトを見つけた。
「福島原発事故の真実と放射能健康被害」hppts://www.sting-wl.com/
2014年公開、最新の更新は今年4月17日となっているので、この件を長く追ってきたことが分かる。
書かれている内容は膨大で、しかも多岐にわたっており、ぼく自身も全ては読み切れていない。
ただ、「2018年9月30日時点で県は206人の甲状腺がん及びその疑いの子どもがいると発表」した、と書いている。
けれど読み進めると、カウント漏れがありさらに12人の患者がおり、もっと読んでいくと、
福島県立医大が隠ぺいしたと思われる子どもがほかに最低でも6人いるのだという。
このウェブサイトのレポートを読み込んでいくと「私」という一人称が散見する。
使われているデータは、福島県が発表しているものはもちろんだが国立がんセンターによる日本の患者数や、
時に日本のものばかりではなくチェルノブイリの事故後のデータとの比較もある。
これだけのものをもし個人が調べ作ったウェブサイトだとしたら、その信念と調査力には頭が下がるとしか言いようがない。
副題に「なぜ福島県は多発する甲状腺がんの子どもたちを…次々と隠すのか?」とあり、
その背景には深い憤りがあることはおそらく間違いないのだろう。
こうした人の行動、視点が巨大な権力を穿ち、一点の光を差し込ませるのかもしれない。
このレポートはさまざまな可能性を考え、問題を投げかけている。
本来なら県民を守らなければならない県。
県民の中でも将来の福島をつくる子どもは宝物のはず。
その子どもの健康状態をしっかり調べようともせず、甲状腺がんの罹患数も把握できていない。
原発の問題と向き合う気がさっぱりと見えてこない県は、危険地域への住民の帰還を求め、
帰らない場合は補助金を出さない措置をとっている。
患者の命こそ救わなくてはならないはずの医科大病院。
原発事故の後、ヨウ素を求める県民たちに「ヨウ素を飲む必要はない」と告げたのだという。
そして、病院関係者とその家族にだけヨウ素を渡し、その口止めまでしたことが報道された。
そのうえ、甲状腺がんと原発には関係がないと言い切る医師たち。
福島の人たちの中には原発で家も仕事も奪われ、一家離散し、子どもはいまだに外で遊ぶこともはばかられる。
そんな大変な状態が、今も続いている人もきっと少なくないと思う。
そんなときに、本当なら頼りにしたい行政と病院。
担当している彼らは、いったい自分の役割を何だと考えているのだろうか。
人としての顔が全く見えてこないのは、つらすぎる。
5月1日、元号が変わった。
平成の天皇は、戦争がなかったこの30年を安堵したと伝えた。
けれど、災害に見舞われることは数多くあった。
そのたび、天皇は被災地を訪れ、被災者に直接声をかけた。
当たり前のように見えたその姿は、しかし歴代天皇では初めての姿だった。
天皇からの直接の声掛けに、被災者は本当に励まされただろうな、と素直に思う。
戦争を始め、そして敗れ、神・天皇から、人間・天皇となった昭和の天皇。
けれど、戦後に制定された新憲法の下でも、天皇は日本国民ではなかった。
姓をもたず、選挙権もない。
その存在は、日本国民統合の象徴としてしか認められてはいない。
人権というコトバがあるが、天皇に人権はないのだろうか。
人間宣言したというのに。
けれど、平成の天皇は、その「象徴」天皇を模索し続けたと繰り返し報道は伝えていた。
そして、被災者の前でひざまずき話しかける姿は、まさにその「象徴」を象徴するようだった。
国民を想う平成の天皇の気持ちは、おそらく本物だろうとぼくには思えた。
天皇は国民から感謝され、こよなく愛されるようになった。
その天皇への感謝の気持ちを、時の政権は自分たちに都合よく利用しようとしていると、ぼくには見える。
平成の災害でも、被災範囲も人数もとりわけ規模が大きかった東北大震災。
その復旧に、自衛隊員10万人投入を決めた、時の民主党政権菅首相。
23万人程度いる自衛隊の、半数近い。
ぼくは、彼が総理でなければ、きっとそんな決断はしなかったのではないかと思っている。
現総理は、その時その決断を大問題であると大騒ぎしていたからだ。
あの時、民主党政権で本当に良かったと振り返っても思う。
平和憲法を変え、自衛隊を軍隊化し、戦争に参加できる国に作り替えようとしている現政権。
そのために天皇まで利用しようしようとしている。
令和も、戦争がない時代で終わることができるのだろうか。
そして、福島の原発の終息が全く見えていない中での再度の原発推進。
原発さえ狙えば、普通のミサイルでも原爆投下同然の被害が出せる。
この国を、この国の子どもの未来を、現政権はどうしようとしているのだろうか。
史上最悪の災害、それは間違いなく「戦争」という人災だ。
子どもたちをそんなものに巻き込む国にしては、絶対にいけない。
平成の天皇は、戦争がなかったこの30年を安堵したと伝えた。
けれど、災害に見舞われることは数多くあった。
そのたび、天皇は被災地を訪れ、被災者に直接声をかけた。
当たり前のように見えたその姿は、しかし歴代天皇では初めての姿だった。
天皇からの直接の声掛けに、被災者は本当に励まされただろうな、と素直に思う。
戦争を始め、そして敗れ、神・天皇から、人間・天皇となった昭和の天皇。
けれど、戦後に制定された新憲法の下でも、天皇は日本国民ではなかった。
姓をもたず、選挙権もない。
その存在は、日本国民統合の象徴としてしか認められてはいない。
人権というコトバがあるが、天皇に人権はないのだろうか。
人間宣言したというのに。
けれど、平成の天皇は、その「象徴」天皇を模索し続けたと繰り返し報道は伝えていた。
そして、被災者の前でひざまずき話しかける姿は、まさにその「象徴」を象徴するようだった。
国民を想う平成の天皇の気持ちは、おそらく本物だろうとぼくには思えた。
天皇は国民から感謝され、こよなく愛されるようになった。
その天皇への感謝の気持ちを、時の政権は自分たちに都合よく利用しようとしていると、ぼくには見える。
平成の災害でも、被災範囲も人数もとりわけ規模が大きかった東北大震災。
その復旧に、自衛隊員10万人投入を決めた、時の民主党政権菅首相。
23万人程度いる自衛隊の、半数近い。
ぼくは、彼が総理でなければ、きっとそんな決断はしなかったのではないかと思っている。
現総理は、その時その決断を大問題であると大騒ぎしていたからだ。
あの時、民主党政権で本当に良かったと振り返っても思う。
平和憲法を変え、自衛隊を軍隊化し、戦争に参加できる国に作り替えようとしている現政権。
そのために天皇まで利用しようしようとしている。
令和も、戦争がない時代で終わることができるのだろうか。
そして、福島の原発の終息が全く見えていない中での再度の原発推進。
原発さえ狙えば、普通のミサイルでも原爆投下同然の被害が出せる。
この国を、この国の子どもの未来を、現政権はどうしようとしているのだろうか。
史上最悪の災害、それは間違いなく「戦争」という人災だ。
子どもたちをそんなものに巻き込む国にしては、絶対にいけない。
「地震で失ったものもあるけれど、得られたものの方が大きかった」
「これまで支えてもらった分、これからは自分たちが支えたい」
4月6日、東京新聞夕刊のトップに、安平(あびら)町早来(はやきた)小学校卒業生たちの言葉があった。
安平町は、昨年ぼくが11月~今年1月にかけてレポートした、あの北海道地震の被災地だ。
その影響で学校が使えなくなり、さまざまなことができなくなった。
今自分たちにできることは何か、と、早来小学校の6年生26人が話し合ったのだという。
『8000人の笑顔プロジェクト』
安平町の人口とほぼ同じ数だけ、自分たちでいろいろな人から笑顔のメッセージを集め、それを卒業式で公開し、町の人を元気にしたい。
そういう願いから始まったプロジェクトだった。
実際、自分の足を使って写真とメッセージを集める子どもたち。
けれど、それだけでは間に合わない。
子どもの動きが大人を動かし、SNSなどのネット上も駆け巡り、卒業式を飾ったその笑顔の写真付きメッセージは、なんと「34,876!」人。
道内はもとより全国、世界中10か国以上からメッセージが届いたのだという。
冒頭の言葉は、目標の4倍以上を集めた子どもの声として紹介されていた。
担任である富樫忠浩先生は、笑顔のメッセージを届けてくれた人々に向け、こうメッセージをしたためた。
「(前略)この子たちは小学校の目の前にある早来中学校の仮設校舎へと進学します。3年間この仮設校舎で過ごす可能性も考えられる状況です。そのような中でも胸を張って進んでほしいという思いです。小学校の一つの教室から、このような発信ができ、たくさんの人の支えを実感した子ども達であれば、きっと大丈夫だと考えます。(中略)子どもたちが成長し、同じような誰かのために力を尽くすことで、この御恩を返させていただきます。(後略)」
以前、この中でも紹介した「PTG(ポストトラウマチックグロウス)」=「心的外傷後成長」。
災害や紛争、戦争等によって、人の心は大きく傷ついていく。
それが大きなダメージを残すことを「PTSD(ポストトラウマチックストレスディスオーダー)」=「心的外傷後ストレス障害」と呼び、こちらがクローズアップされるが、実は、ピンチだからこそチャンスにもなるのだ。
この子たちは自分たちで何ができるか話し合い、自分が住む町の人口と同じだけの笑顔のメッセージを集めるという、途方もない計画を立てた。
それが大人を動かしたということ、そして目標の4倍以上の笑顔のメッセージを集めたこと、それは間違いなくPTGを招いたといえるのではなかろうか。
そして何より、大人は信頼できる!きっとそう感じたことだろう。
これは、安平町の未来を語る上ではとんでもない財産だということだ。
「これまで支えてもらった分、これからは自分たちが支えたい」
4月6日、東京新聞夕刊のトップに、安平(あびら)町早来(はやきた)小学校卒業生たちの言葉があった。
安平町は、昨年ぼくが11月~今年1月にかけてレポートした、あの北海道地震の被災地だ。
その影響で学校が使えなくなり、さまざまなことができなくなった。
今自分たちにできることは何か、と、早来小学校の6年生26人が話し合ったのだという。
『8000人の笑顔プロジェクト』
安平町の人口とほぼ同じ数だけ、自分たちでいろいろな人から笑顔のメッセージを集め、それを卒業式で公開し、町の人を元気にしたい。
そういう願いから始まったプロジェクトだった。
実際、自分の足を使って写真とメッセージを集める子どもたち。
けれど、それだけでは間に合わない。
子どもの動きが大人を動かし、SNSなどのネット上も駆け巡り、卒業式を飾ったその笑顔の写真付きメッセージは、なんと「34,876!」人。
道内はもとより全国、世界中10か国以上からメッセージが届いたのだという。
冒頭の言葉は、目標の4倍以上を集めた子どもの声として紹介されていた。
担任である富樫忠浩先生は、笑顔のメッセージを届けてくれた人々に向け、こうメッセージをしたためた。
「(前略)この子たちは小学校の目の前にある早来中学校の仮設校舎へと進学します。3年間この仮設校舎で過ごす可能性も考えられる状況です。そのような中でも胸を張って進んでほしいという思いです。小学校の一つの教室から、このような発信ができ、たくさんの人の支えを実感した子ども達であれば、きっと大丈夫だと考えます。(中略)子どもたちが成長し、同じような誰かのために力を尽くすことで、この御恩を返させていただきます。(後略)」
以前、この中でも紹介した「PTG(ポストトラウマチックグロウス)」=「心的外傷後成長」。
災害や紛争、戦争等によって、人の心は大きく傷ついていく。
それが大きなダメージを残すことを「PTSD(ポストトラウマチックストレスディスオーダー)」=「心的外傷後ストレス障害」と呼び、こちらがクローズアップされるが、実は、ピンチだからこそチャンスにもなるのだ。
この子たちは自分たちで何ができるか話し合い、自分が住む町の人口と同じだけの笑顔のメッセージを集めるという、途方もない計画を立てた。
それが大人を動かしたということ、そして目標の4倍以上の笑顔のメッセージを集めたこと、それは間違いなくPTGを招いたといえるのではなかろうか。
そして何より、大人は信頼できる!きっとそう感じたことだろう。
これは、安平町の未来を語る上ではとんでもない財産だということだ。
「ふくしまっ子リフレッシュ㏌世田谷」という事業がある。
「福島の子どもたちと共に・世田谷の会」という、世田谷区内のさまざまな団体のネットワークが主催する事業だ。
2012年3月に始まり、震災より8年目に当たるこの3月で20回を数える。
3月は26日(火)から31日(日)がその招待日で、毎回のことだが、羽根木プレーパークにも29日(金)にやってくる。
羽根木プレーパークは子どもからは一番人気だそうで、泥んこになっても安心できると親からもとても好評だという。
とてもうれしい報告だ…が、これは8年を迎えてなお安心して外遊びができていないことの裏返しだということを忘れてはならない。
遊ぶことを通じて、子どもは傷ついた自分の心を自らケアする力を持っている。
今まで何度か触れてきたが、これを確信したのは阪神淡路大震災の時だった。
手作りのテーブルに乗り、数人でスクラムを組み、そして一斉に揺らしだす。
「震度1じゃ、2じゃ、3じゃ…」そして「震度7じゃ!!」と叫び、テーブルの脚を折る。
まるで家がつぶれるごとく、といった地震の再現遊び。
揺れを自分たちでコントロールすることで、全く理不尽で凶暴なその身に起きた出来事を、
何とかコントロール可能なものとして収めなおそうとしている。
この形で出るのか!という激しい動揺と共にそう確信したのだった。
そうした遊びを体現できる環境づくりやそのお手伝いを、これまで何度もしてきた。
「地震があってね、いやなことばっかりだったけどひとつだけいいことがあった」
こんな事態に直面してなおいいことって?と思い聞いた時
「学校も塾もみんななくなったでしょ。行かなくっていいから友達と遊べる」
友達と遊びたい、子どもだったら誰もが願う当たり前の想い。
その実現に、これほどの破壊が必要だということを知った時のぼくの衝撃。
「あの日以来、ずっと私の腕をつかんで離れなかったのに…」
初めて来た遊び場で、5歳の女の子が親から離れひとりで遊びだした時にお母さんはそうつぶやいで涙を流した。
「もう一度地震が来たらいいのに」
復興が進み、遊び場がなくなると思った小学生はそう漏らした。
初めての遊び場で
「生まれてきて今日が一番楽しい!」「生きてきた中で一番楽しい!」
そう叫んだ子どもたちが、いったい何人いただろうか。
8年がたち、東日本大震災を忘れてはならないと心に刻む。
けれど、「復興」はどのように進んでいるのだろうか。
そこに、子どもの目線は組み込まれているのだろうか。
また遊べない日常に、子どもは引き戻されてはいないだろうか。
忘れてはならないことのもうひとつの視点が、ここにある。
「福島の子どもたちと共に・世田谷の会」という、世田谷区内のさまざまな団体のネットワークが主催する事業だ。
2012年3月に始まり、震災より8年目に当たるこの3月で20回を数える。
3月は26日(火)から31日(日)がその招待日で、毎回のことだが、羽根木プレーパークにも29日(金)にやってくる。
羽根木プレーパークは子どもからは一番人気だそうで、泥んこになっても安心できると親からもとても好評だという。
とてもうれしい報告だ…が、これは8年を迎えてなお安心して外遊びができていないことの裏返しだということを忘れてはならない。
遊ぶことを通じて、子どもは傷ついた自分の心を自らケアする力を持っている。
今まで何度か触れてきたが、これを確信したのは阪神淡路大震災の時だった。
手作りのテーブルに乗り、数人でスクラムを組み、そして一斉に揺らしだす。
「震度1じゃ、2じゃ、3じゃ…」そして「震度7じゃ!!」と叫び、テーブルの脚を折る。
まるで家がつぶれるごとく、といった地震の再現遊び。
揺れを自分たちでコントロールすることで、全く理不尽で凶暴なその身に起きた出来事を、
何とかコントロール可能なものとして収めなおそうとしている。
この形で出るのか!という激しい動揺と共にそう確信したのだった。
そうした遊びを体現できる環境づくりやそのお手伝いを、これまで何度もしてきた。
「地震があってね、いやなことばっかりだったけどひとつだけいいことがあった」
こんな事態に直面してなおいいことって?と思い聞いた時
「学校も塾もみんななくなったでしょ。行かなくっていいから友達と遊べる」
友達と遊びたい、子どもだったら誰もが願う当たり前の想い。
その実現に、これほどの破壊が必要だということを知った時のぼくの衝撃。
「あの日以来、ずっと私の腕をつかんで離れなかったのに…」
初めて来た遊び場で、5歳の女の子が親から離れひとりで遊びだした時にお母さんはそうつぶやいで涙を流した。
「もう一度地震が来たらいいのに」
復興が進み、遊び場がなくなると思った小学生はそう漏らした。
初めての遊び場で
「生まれてきて今日が一番楽しい!」「生きてきた中で一番楽しい!」
そう叫んだ子どもたちが、いったい何人いただろうか。
8年がたち、東日本大震災を忘れてはならないと心に刻む。
けれど、「復興」はどのように進んでいるのだろうか。
そこに、子どもの目線は組み込まれているのだろうか。
また遊べない日常に、子どもは引き戻されてはいないだろうか。
忘れてはならないことのもうひとつの視点が、ここにある。
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