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2月

「神戸をわすれない」と名付けた集会が世田谷にある。
言うまでもなく、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災のことだ。
今年開かれ、32回目の集まりが1月19日にあった。
大震災があってから24年目なので、32回とは年に2回開いたことがあることを意味する。
それにしても24年! 考えてみたら、これはすごい話だ。
ひとりの人間ならば生まれてとっくに成人しているし、干支も二順している。
これを毎年欠かさず続けてこられたのは、たった一人の人、
星野弥生さんという人が本気で「忘れない」と腹を決めていたからに他ならない。

阪神淡路大震災の時、ぼく自身は世田谷のプレーパークの活動として長田区に遊び場を立ち上げていた。
1月26日に現地入りし2月3日には遊び場を立ち上げていたので行動は早かったのだろうが、
被災地での遊び場づくりはこの時が初めてだったので、不安だらけだった。
広島の爆心地の写真をほうふつさせるような焼け野原となった現場を、ぼくは今でも忘れることができない。
同じ世田谷に住みながら、実は弥生さんとぼくはこの神戸で本格的に出会った。

震災の2年前、弥生さんはスペインの「ベンポスタ子ども共和国」のサーカス団を日本に招き、
神戸でその最終公演を行っていた。
その時に地元の受け入れを担ってくれた長田区の鷹取教会が被災し、その見舞いに神戸へ来ていたのだった。

ベンポスタ子ども共和国は「強いものは下に、弱いものは上に、子どもはてっぺんに」をモットーに、
身寄りがない子どもを含め、さまざまな事情の子たちが暮らす場所だ。
スペインのガリシア地方に小さいながらも独自の敷地を持ち、議会や首長も住民である子どもが選挙で決め、
通貨を発行し、食もできる限り自給自足を目指す共和国だった。
そこには運営のための外貨を稼ぐサーカス団があり、この共和国のモットーを体現する人間タワー
(大人が下に、大きい子が上に、小さい子は3メートル以上のてっぺんに)が最高の見せ場となっていた。
弥生さんは、その共和国から日本大使を任命されサーカス団を招いたのだった。

世界的にもおそらく例がないそのベンポスタ子ども共和国のドキュメント映画を、
一人の日本人映画監督、青池憲司さんが撮った。
その青池監督が「野田北部・鷹取の人びと」というタイトルで、
この大震災をその地域の人たちがどう乗り越え復活していくのか、
4年に亘って撮り続けていくことになる。
「神戸を忘れない」では全14部にも亘ることになったその記録映画ができるたびに鑑賞会を開き、
シンポジウムを行ってきた。
32回にも亘るその集まりには、こうした背景があるのだ。

しかしそれでも「忘れない」こと、ましてや、そのたび集会を開き続けることは難しい。
1月19日にぼくは出席できなかったが、野田北部からもパネラーとして駆け付けた方もいたそうだ。
今でも「忘れない」と声に出し、集まる人々が東京にいることを、その方はどう感じただろう。
来月丸8年を迎える東日本大震災、ことに原発「事件」、忘れないと改めて思う。

※管理人の都合で更新が遅れました。申し訳ありません。



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