震災をきっかけに、東北に移住し、今でも活動を続ける友人から報告が届いた。
その中の一文に、以下のようなものがある。
「陸前高田市は、未だに復興は進んでおらず町のほとんどは復旧していない市です。本当に進んでいません。」
「本当に進んでいない」、そこに想いを寄せ続ける者だから言える、迫力のあることば。
陸前高田市に初めて入ったのは、震災からもう数カ月もたっていた。
陸前高田市は、岩手県の沿岸部最南端に当たる。
ぼくたちが遊び場を立ち上げた気仙沼市は、宮城県沿岸部の最北に当たり、山を挟み隣となる。
隣の市とはいえ、遊び場は気仙沼市の中では最も南側にあり、少し南下すれば隣の南三陸町だ。
それに、まだ当時は道がまだしっかりと確保されていなかったようにも記憶している。
気仙沼市内を抜けて陸前高田に北上するのは、まだ困難だった。
いや、そればかりではない。
正直なことを言えば、怖かったのだ。
気仙沼に入るときもそうだったが、そこで一体何が起きているのか、
テレビを見るようには行かない臨場感が、心も体も縛り上げていた。
そして、陸前高田に行くためには避けて通ることができない気仙沼市内の最北端の鹿折地区。
記憶にとどめている方もいらっしゃるかもしれない。
石油タンクから油が流出し、流された瓦礫に付着、海面が燃え上がったのだ。
押し寄せる海面と、全てを焼き尽くさんばかりの業火。
ぼくもテレビでしか見てはいないが、「地獄だ」と心が凍る光景だった。
鹿折に初めて入ったのは震災から2カ月後くらいだったが、その時も本当に怖かった。
油特有の、鼻を突く強烈な臭いが、さらに僕の心を縛り上げたことを覚えている。
ここで何が起きたんだ!・・・想像するのが怖かった。
想像しても仕切れるものではないのだが、初めて行ったときには思考が停止していたのではないかと思う。
おそらく、感情も。
陸前高田で鮮明に覚えているのは、老人ホームの光景だ。
そのホームが建っているところからは、建物がすべて流されているにもかかわらず、海は見えない。
なのに、中に入ると僕よりずっと高い位置に波が暴れた後が残されていた。
「真っ黒な巨大な饅頭」、津波をそうたとえた人もいるが、白い壁に、まさに真っ黒な痕跡が残されていた。
水しぶきが天井にもはね、その流れがどれだけ荒々しかったかが読み取れた。
ここにいたご老人は無事だったろうか、スタッフは・・・。
かさ上げ工事で以前の町は見る影もなくなってしまったが、確かにここに住んでいた人々がいたし、今もいる。
その中に、いまだに遊べずにいる子どもを案じ、遊び場をつくろうとしている人がいるのだと、報告にはそう書かれていた。
野山を開放して、昔の子のように遊んでほしいと願い行動を起こそうとしている人がいる。
すさまじい体験を乗り越えて、いや、乗り越えるために。
そういう人がいることを、ぼくは常に覚えていたいと強く感じた。
※管理人の都合で、掲載が遅くなりました。申し訳ありません。
その中の一文に、以下のようなものがある。
「陸前高田市は、未だに復興は進んでおらず町のほとんどは復旧していない市です。本当に進んでいません。」
「本当に進んでいない」、そこに想いを寄せ続ける者だから言える、迫力のあることば。
陸前高田市に初めて入ったのは、震災からもう数カ月もたっていた。
陸前高田市は、岩手県の沿岸部最南端に当たる。
ぼくたちが遊び場を立ち上げた気仙沼市は、宮城県沿岸部の最北に当たり、山を挟み隣となる。
隣の市とはいえ、遊び場は気仙沼市の中では最も南側にあり、少し南下すれば隣の南三陸町だ。
それに、まだ当時は道がまだしっかりと確保されていなかったようにも記憶している。
気仙沼市内を抜けて陸前高田に北上するのは、まだ困難だった。
いや、そればかりではない。
正直なことを言えば、怖かったのだ。
気仙沼に入るときもそうだったが、そこで一体何が起きているのか、
テレビを見るようには行かない臨場感が、心も体も縛り上げていた。
そして、陸前高田に行くためには避けて通ることができない気仙沼市内の最北端の鹿折地区。
記憶にとどめている方もいらっしゃるかもしれない。
石油タンクから油が流出し、流された瓦礫に付着、海面が燃え上がったのだ。
押し寄せる海面と、全てを焼き尽くさんばかりの業火。
ぼくもテレビでしか見てはいないが、「地獄だ」と心が凍る光景だった。
鹿折に初めて入ったのは震災から2カ月後くらいだったが、その時も本当に怖かった。
油特有の、鼻を突く強烈な臭いが、さらに僕の心を縛り上げたことを覚えている。
ここで何が起きたんだ!・・・想像するのが怖かった。
想像しても仕切れるものではないのだが、初めて行ったときには思考が停止していたのではないかと思う。
おそらく、感情も。
陸前高田で鮮明に覚えているのは、老人ホームの光景だ。
そのホームが建っているところからは、建物がすべて流されているにもかかわらず、海は見えない。
なのに、中に入ると僕よりずっと高い位置に波が暴れた後が残されていた。
「真っ黒な巨大な饅頭」、津波をそうたとえた人もいるが、白い壁に、まさに真っ黒な痕跡が残されていた。
水しぶきが天井にもはね、その流れがどれだけ荒々しかったかが読み取れた。
ここにいたご老人は無事だったろうか、スタッフは・・・。
かさ上げ工事で以前の町は見る影もなくなってしまったが、確かにここに住んでいた人々がいたし、今もいる。
その中に、いまだに遊べずにいる子どもを案じ、遊び場をつくろうとしている人がいるのだと、報告にはそう書かれていた。
野山を開放して、昔の子のように遊んでほしいと願い行動を起こそうとしている人がいる。
すさまじい体験を乗り越えて、いや、乗り越えるために。
そういう人がいることを、ぼくは常に覚えていたいと強く感じた。
※管理人の都合で、掲載が遅くなりました。申し訳ありません。