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3月

川崎で起きた、中学1年生の殺害事件は衝撃だった。
犯人が18歳や17歳の少年だったこともそうだが、その残忍さは眼を覆うものがあったからだ。

この事件について、
東日本大震災をきっかけに宮城に移り住み遊び場活動を続けるぼくの友人が言った。
「何だか思い出しちゃうよね。神戸の事件。今回は違うと思うけどさ」
神戸の事件とは、須磨区で起きた連続児童殺傷事件のことだ。
犯行は、14歳の子どもの手で行われた。
校門に掲げられた首、そこに刻まれた儀式のような切り傷、そしてマスコミへの犯行声明。
これらが14歳の少年の手で行われたことに、世間は震撼した。
阪神淡路大震災の時にも遊び場活動を行ったぼくたちは、
あの事件が震災とおそらく無縁ではないことを直感していた。
それを思い出してしまうと、彼は言ったのだった。

神戸の事件はもうひとつ、「少年法」の改正という流れのきっかけとなった。
今回も、そうした話が出始めている。

少年法は、発達途上の子どもを、社会で育てようという理想から生まれている。
誰も犯罪者として生まれてきたわけではない。
その子どもが罪を犯すようになったのなら、その育成環境を正すことが欠かせない。
少年院は罪を罰する施設ではなく、少年の持つ「変わる」力を引き出し、更生させるための教育機関だ。
社会的な制裁を加えるための大人の刑務所とは、その思想が根本から違う。
少年期の成長と変貌は早い。
社会で再び生きる力を身に付けるためには、社会からの隔離は極力短いほうがいい。
そういう思想から「長くても2年」とされてきた。
しかし「厳罰化」の叫びは、それを刑罰として捉え、少年院への長期の収監を求めている。

要は、「こども観」にある。
子どもに向けたまなざしの、その内容だと言える。
厳罰化は、子どもの揺らぎを許さないという社会の視線につながる。
それが、「子育ての責任は親にある」といわれる風潮とも絡み、親そのものをも追い込む。
子育てに緊張が走り、親子関係そのものが窮屈になる。
おそらく、それが虐待の一要素にもなるだろう。
それは、罪を犯す可能性の高い子どもの成育環境ともいえる。

震災に合い、家族自体が離散し、崩壊した例が山とある。
たとえそうでなくても、震災以前とは環境も関係も激変してしまった。
だから、なおさらまともに子どもを育てようと、必死になっている親がきっと大勢いる。
子どもは親だけで育てられるものではない、いいのですよ、もっと力を抜いて。
そういえる社会でありたいと、切に思う。



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