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9月

2020年09月15日
先週末の台風10号。
「かつて経験したことがない」強さだと、気象庁が数日前から異例の警告を出し続けた。
結果的には、進路が九州沖合に少しそれたこともあり、事前の最大級の警戒警報ほどの被害は免れたように思う。
それでも土砂崩れでいまだに行方不明の人がいるし、何より海水面の温度が下がっていない。
まだまだ台風シーズンのただなかにいることを思えば、決して油断ができる状況ではない。

けれど、目を転じて朝鮮半島はいったいどうだったのだろう。
偏西風に乗らず北上を続けたので、九州からそれたぶん、朝鮮半島には直撃だった。
韓国、北朝鮮にも被害は及んだのではないかと、ちょっと前に調べてみた。
10号の直前の9号が同じく北上していた。
日本には直接被害を与えなかったのでついスルーしていたが、ここですでに大きな被害が出ていた。
台風のダブルパンチを受けていたことに、初めて気づいた。
10号は、九州の対岸に位置するプサン付近に上陸し、プサンの町は川の氾濫とともに
水浸しになったとニュースが伝えていた。
人命も、数人失ったとのことだった。
ここには被害状況を書ききれないが、韓国に関してはそれなりに調べれば被害が分かった。
だがしかし、北朝鮮に関してはよく分からなかった。
けれど、今日になって、ネットニュースが北朝鮮の惨状を伝えていた。

道路や橋、鉄道や送電線が寸断され、交通網が完全にマヒしているという。
水害や土砂崩れが都市部も含め農業地帯に起きているとのことで、そのニュースは、
今年の収穫期に起きたこの被害に大きな危機を伝えていた。
国外に被害を伝えられる国は、まだ国外からの支援を受ける道が開けている。
けれど、北朝鮮は、いいことが起きると派手に伝えるが、マイナスなことはあまり出さない国だ。
これは中国も同じだが、中国とは国の体力が違う。
国際社会に向かって助けを求めることを表立ってしないこの国は、かつて国民の多くを餓死させたと伝えられている。
その数、数百万人とも。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がその惨状を伝え、国交がない先進諸国にも
緊急の人道支援を訴えたことは記憶している人もいるかと思う。
けれど、その人道支援さえも飢餓状態にある国民に届くことはなく、国家首脳及び兵隊はじめ
その体制を守るための人々にほぼ独占的に配られていると思われる様子から、手を引かれてしまった。
こうしたことを見ると、自然災害そのものは簡単には避けられないとしても、その被害にあった国の国民が
どういった体制の国に住んでいるかがその後の暮らしの天地を分けることに気づく。
もちろん、日本で被災した場合、国民に日本は手厚いと言いたいわけではない。
例えば「激甚災害」に指定しなければ国は手を差し伸べない、その家に住み続けることができない点では同じでも
「半壊」「全壊」による補償の額が全く違う、等々。
今回のコロナにしても、休業要請と補償が一緒に考えられていない等、被災した人たちに対する国の
責任の負い方や考え、制度など、考えなければならない点はたくさんある。
そして、これは政治が、つまり人の意思が決めている。
どのような意思を、その国は持ちたい、あるいは持とうと考えているのか。

今日は、9月11日。
19年前の2001年、希望に満ちていると誰もが期待した新世紀を、絶望的な事件が切り裂いた。
アメリカ、ツインタワーのそれぞれに2機の旅客機が突っ込み、その衝撃により瓦解した。
第3次世界大戦に発展する危険すら覚えさせたこの事件は、自然災害ではもちろんない。
亡くなった数えきれない命、それを指揮したのは紛れもなく人の意思だ。
そして、それに続く湾岸戦争、イスラム国の席巻、ナショナリズムの台頭…、
すべてが人の意思が生み出した悲劇であり、それは再生産されていく。
今やナショナリズムはコロナウィルスのように伝染し、世界に蔓延しつつあるように見える。
自国の利益しか見ないこの姿勢はエネルギーを独り占めし、地球を、
人が住める状況には後戻りできない環境に変えていく。
そして、未知のウィルスが出現し、かつて例がない規模の低気圧(台風やハリケーン等)を生み、
極点の氷を溶かし、海水面を押し上げる。
自然災害すら、人が生み出す時代に入っている。

おりしも日本は今、ポスト阿部の、これからのこの国を背負う総裁選の真っただ中にある。
彼らは、この国の、世界の未来を、どう描こうとしているのだろうか。
それを思い描く政治家であることを、未来を生きる子どもに思いをはせながら、強く願う。


8月

2020年09月15日
山形の、僕の友人が何気ない会話の中でこう話した。
「その地区で最初にコロナに罹った人が、引っ越しを余儀なくされちゃったんだよね。村八分とかそんなレベルじゃなく、
仕事も当然できないし、結局住み続けることもできなくなって」
一瞬絶句した。
「それ、とんでもない話じゃない! 本当のこと?」
「ほかにも聞くよ。」
お盆の今月、東京に住む身内に「帰ってくるな」という地方からの話は報道でよく聞く。
まさか、コロナに感染しただけでそこに住めなくなるなどということがあるなんて!

こんな状況を、ぼくは新型コロナの感染よりはるかに怖いと感じる。
差別や選別、それがまかり通ってしまう常識が、人の心を闇に引き込んでいく。
いや、差別や選別は、そもそも人の心の中にある。
それを認め、それとしっかり向き合っていないと、人はいとも簡単にその闇に引きずり込まれるのかもしれない。

医療従事者に感謝を!と言いつつ、その家族が学校や職場であからさまに遠ざけられる。
福島で原発事件(あれは事故ではない)に合い、子どもの健康被害を案じる親が引っ越したその先で、
学校で「放射能がうつる」と言われいじめられる。
まるで「菌」や「ウィルス」の扱いだ。
なぜこんなことが起きるのだろう。
おそらく、その根底にあるもののひとつは、「恐怖」とそれからくる「不安」だ。
しかし「恐怖」と「不安」は、全く別物だ。

「恐怖」には、それを引き起こす実態がある。
「不安」には、その実態がない。
つまり上記の話で言えば、コロナウィルスや放射線はその実態、つまり恐怖の対象。
けれど、それが「うつるかもしれない」というのは、これは不安だ。
不安を少しでも軽くしたいのなら、恐怖の対象をしっかり知ることだ。
それさえ正しく理解すれば、不安のもとは確実に軽くすることができる。

人は、知ることができる。
そして、考えることができる。
報道や人が何を言っても、大事なことが何なのかを、人は自らの頭で考えることができる。
その上でわからないことがあれば、人は調べることができる。
よくわからないで、判断に迷うことはあるだろう。
けれど、だからと言って簡単な答えにすがることが何を意味するのか。
それを狙っているのが、心にぽっかり穴をあけた深い闇なのだと、僕は思う。
さぁ、飛び込んでおいで、楽に答えが得られるよ! と。

お盆だ。
戦禍に命を落とした人も大勢いる。
さぁ、遠慮なく故郷に帰っておいで!

7月

2020年07月18日
東日本大震災から9年4か月。
その頃に、一体誰が予想しただろうか。
毎年のように起きる、数十年あるいは100年に一度ともいわれるほどの豪雨と大水害。
今年のまさに今も、九州をはじめ、各地で河川の氾濫、決壊が起き、被害が拡大している。
そして未知のウィルスである新型コロナによる感染症の世界的大流行。
被災地を襲う感染の危険性で、避難所自体、従来通りというわけにはいかなくなっている。
何が起きても、異常ではなくなっていくこの現実。
異常が常識になりそうな、この危険な感覚。

コロナに関しては、社会的には振り回されすぎだという印象がぼくには強い。
ことに、子どもに関してはその「育ち」の観点から語られることはほとんどない。
昨年末に中国で発見されたこのウィルスは、新型でほとんど得体が知れなかった。
けれど、徐々にだがその性質がわかり始めている。
・子どもの感染は大人から子どもが多くを占め、子ども同士の感染は少数例。
・子どもから大人に感染したという報告も、少数例にとどまっている。
・子どもが感染しても、そのほとんどが軽症もしくは無症状で重症者はまれ。
こうした状況があるにもかかわらず、子どもにも大人と同じ規制を守らせようとしている。
具体的には「三密(密閉、密集、密接)」を避けることだ。

子どもは、感覚神経をフルに使って下界を感知し、自分の中に取り込み、そして心を育てる。
そして、その繰り返しの中で感覚神経も発達させていく。
特に「肌感覚」は子どものもう一つの脳ともいわれるくらい、例えば愛着関係を築くのも、
コミュニケーション力を養うのにも、決して欠かすことができない経験となる。
そんな発達途上の子どもにとって「密」は不可欠な要素だ、ということに、社会はあまりに無頓着だ。
それを子どもから奪うのなら、それ相応の理由が必要となる。
例えば、感染した時の重症化の頻度の高さ、さらに言えば死亡率が高い、
そのうえ子ども同士の感染が容易に起きている、などだ。
しかし、既述の通り、子どもの感染には、このウィルスは優しいようだ。

特効薬ができるまで、ワクチンができるまで、それまでの我慢だという人もいる。
けれど、子どもの育ちは驚くほど速い。
おそらく幼児くらいの年齢ならば、1週間の自粛は、大人の1年以上に匹敵するのではないか。
しかも、特効薬もワクチンも、待てば必ずできる保証はない。
RNAウィルスである新型コロナは、その性質上、変異が早い。
インフルエンザウィルスも同じRNAウィルスで、やはり変異が早いため、
すべての型に決定的な特効薬やワクチンは、いまだにない。
インフルエンザ同様、おそらく決定的な特効薬やワクチンはできないのではないだろうか。
それを「できるまでの辛抱」と言っていたら、一体何世代の子どもが育ちの機会を奪われることになってしまうのか。

新型コロナにかかわらず、「温暖化」と「際限ない開発」がこのまま進めば、
未知のウィルスはいくらでも出現すると予言する専門家がいる。
ぼく自身も、そう思うひとりだ。
子どもの育ちを守り、こうした事態を生き抜いていくためにはどうしたらいいのか。

僕自身は、自分の免疫系を高めていくことに尽きると考えている。
免疫には「自然免疫」と「獲得免疫」がある。
前者は親から引き継いだもので、おおざっぱに敵を認識し撃退させる門番のような役割を持つ。
後者はこの世に生まれて以降、その環境から様々な菌やウィルスを取り込み、
より専門的に侵入者に攻撃を仕掛ける力を持った免疫だ。
今の日本は、この獲得免疫が強化されにくい環境に置かれているといえる。
人工的に、きれいにしすぎているからだ。

土のある場所で寝転がり走り回り、草や虫と戯れる。
外で手作りのお弁当をみんなで分け合いながらほおばる。
これだけで獲得免疫は格段に強化される。
子どもの育ちには外遊びが欠かせない理由の、これは大きなひとつだ。

そうした免疫の強化を日ごろからしている(つまり泥にまみれて遊んでいる)保育園からは、
次の報告がいくつも届いてきた。
「周りの保育園がインフルエンザで閉鎖されても自分の園では患者が出ない」
そう、これがまず根本の対策であることを知る必要がある。
そして、そういう子どもは、もちろん罹患しても症状は抑えられる。

菌やウィルスによる感染症は、そもそも致し方ないものだ。
人類だけでなく、生き物が命を授けられた時から感染源とのせめぎあいは始まっているともいえる。
けれど、だから生物は進化もしてきた。
人間はもちろん、生物の遺伝子には、菌やウィルス由来のものが数多く見出されている。
哺乳類の胎盤の遺伝子もウィルス由来であるという事実は、中でも特筆すべき発見だ。
ウィルスに感染したから、哺乳類は生まれた―そう考えられているのだ。

そうであれば、感染自体がいけないというより、重症化しないための方策こそ大事なのだといえる。
それに、もともとの免疫機構さえしっかりしていれば、コロナに罹ることで獲得免疫はまた力を増す。
そして、子ども時代は、それを身につけて行くただなかの時代といえる。

感染を忌避するがゆえに、大人と同様の措置を取り様々な感染症に対して弱っちい体にしてしまうのではなく、
免疫の発達をしっかりと保障してコロナに耐えうる体をつくる。
何が本質的に大事かは、生命の進化の歴史がはっきり語っている、そう僕は思っている。

豪雨被害がこれ以上広がらないよう、心から念じています。

6月

2020年06月22日
世界中が、こんなに混乱するとは考えもしなかった。
もちろん、新型コロナウィルス(正式名Covid-19;コビッド19)のことだ。

2019年12月に中国で最初に報告されたというこのウィルスは、今年の2月ころから瞬く間に世界にその感染を広げた。
日々広がる感染を伝える報道に、不思議なことに僕自身は、怖さよりも人のつながりの大きさに驚きを覚えていた。
たとえば、僕が誰か10人を紹介するとして、その紹介された10人がそれぞれ新たな10人を紹介する。
それを繰り返していくと、10人目で世界中の人が紹介しつくされることになる。
自分から始まり、わずか10人目で世界中の人がつながるという事実を、このコロナは可視化したように思えた。
世界は狭い。
そんな狭い関係しかないのに、このコロナ禍にあっても世界中が暴力と奪略、紛争や戦争から脱却することができずにいる。
むしろこの傾向は、コロナ禍にあって、より拍車がかかっているとすら思える。
そこに巻き込まれていくのは、常に子どもだ。

新型コロナは、確かに自然災害だろう。
けれど、その対処に関しては、政治が決定的な影響を与えている。
分らないことだらけのウィルスだったため、過剰かとも思える自粛対応は確かにありえたのだろうとは思う。
ただ、国内に限って言えば、それを進める上で欠かせなかったはずの検査体制の構築や保障の在り方については、未だにおざなりのままだ。
その問題の解決が見えないまま、「新しい生活様式」というものが提唱されてきた。

世界的にみても、子ども同士の感染例はその報告が極端に少ない。
子どもの重症化も同様で、北九州の小学校で報告された子どものクラスターも、世界で初めてともいわれる報告事例であると同時に、感染した子ども自身はほとんどが無症状だ。
つまり、このコロナは今のところ、インフルエンザのように子どもには悪さをしない、とみられている。
そうであれば、インフルエンザに対するように、集団免疫を高める上でも子どもの罹患は忌避しない、そういう判断があってもいいのではないか。

子どもは感染してもいい、もちろんそんなことを言っているのではない。
子どもの育ちには、「密」が欠かせない。
その中で、彼らは愛着を感じ、自分や他者を知り、コミュニケーションの力を育て、思いやる心を育む。
彼らの育ちは早い。
大人の1か月の自粛は、彼らの1年の自粛に匹敵する、いやそれ以上かもしれないくらいだ。
それなのに、大人は自分に課せられた基準をそのまま子どもに適用しようと努力を重ねる。
その状況が奪う子どもの育ちの機会、それに光を当てた報道は今のところほぼ見当たらない。

この状況に、わずかでも疑義を唱えたいと、僕はマンガを描いてFB上に挙げてきた。
今回は、それを共にアップしたい。
エナカッパ1エナカッパ2エナカッパ3エナカッパ4エナカッパ5エナカッパ6エナカッパ7

3月

2020年03月12日
今月11日は東日本大震災から9年、さらにさかのぼること75年前の10日は、東京大空襲で10万人以上が亡くなった日だ。
そして今、社会は残念なことに「新型コロナ騒動…事件」で右往左往している。
今回は今までになく長い文になるが、ぜひお付き合いしてくださればと思う。

3月2日から春休みにかけて学校を全国一斉休校する、その要請を総理が発表したのがわずか4日前の2月27日だった。
これはもう、単なる騒動ではなく、事件だといえる。

遊ぶことの重要性を伝え続けた身からすれば、学校は子どもの最も重要な時間を独り占めしており、その育ちに貢献もしただろうが悪影響も多大に与えてきたと考えている。
日ごろから少なくとも小学生は午前授業で十分と思っているので、「学校に行かないでいい日」ができることは、単純に歓迎したい。
けれどそれは、子どもが遊ぶことの価値を認めるが故である必要があり、今回の要請はそんなこととは真逆の、もう権力を持つ者の単なる思い付きとしか言いようがない状況だと感じている。。

新型コロナウィルスがこれだけの騒動になったことには、様々な要因が考えられる。
昨年暮れに中国で感染が確認されて以来、いまだにその正体がつかめていないこと。
感染が瞬く間に国境をまたぎ、今では世界中に広がりを見せていること。
その感染ルートが、感染の始まり以来はっきりとつかめていないこと。
症状が出ていない人でも、陽性の人が発見されていること。
正体がわからないため、発症後の治療方法がわからないこと。
発症した人から何人もの死者が出ていること。

マスクはまだしも、トイレットペーパーや食料品の買い占め等、根拠のない行動は社会不安の表れといえる。
不安と心配、この入り混じった心情が相乗効果でさらに高まっていく。
これは、9年前の東日本大震災の際も見られた現象だ。

「心配」と「不安」は、実は似て非なる心の状態だといえる。
[心配]には根拠がある。
今回で言えば、その根拠は「感染した時に重篤化し、特効薬がなく死に至る人もいる」ということだ。
この心配の根拠に関しては、感染を防ぐためにできることをする、という答えがある。
新型であっても「コロナ」というウィルス種であることは特定されている。
あのサーズもマースも同じコロナ種だが、このコロナウィルスの仲間は最も外側が膜で包まれている。
エンベロープと呼ばれるその部分が増殖には不可欠で、これが壊れると不活性化し増殖できない。
このエンベロープはアルコールや石鹸に弱く、なので手洗いが盛んに奨励されている。
マスクは、今のところ飛沫感染すると言われているコロナを人にうつさないための効果は見込めるが、感染を防ぐことへの期待値は低い。
こうした今わかっている事実を考えると、今できる心配の解消策は非常にシンプルだとわかる。
アルコールや石鹸による、手洗いだ。
それ以外の有効策は、例えば屋内の場合、ウィルスが漂っている可能性がある空気を滞留させないために換気をする、体と体が触れ合う空間に長くいない、そもそも空気が滞留することがない屋外を選ぶ、ことくらいだろう。
しかしそれらをすべて実践したとして、それでも残るとすれば、それは「心配」ではなく「不安」である可能性が高い。
不安を全く持たない人はいないかもしれないが、不安は、一人一人の感度によって全く異なって迫ってくる。

不安の感度は、その人が育ってきた背景や経験、現在の生活の安定度、また、将来への見通し等すべてが要素となりえ、それらが絡まりあって高まっていく。
なので、手洗いをそこそこしたらあとは罹るかどうかは時の運、くらいに思える人もいれば、手を頻繁に洗いいくらマスクを買いだめしても不安な人もいる。
それ自体に良いも悪いもないが、心配と不安が混然一体化していないかを検証することは大事なことだ。
というのも「不安」は「心配」と違い、手洗いをする等の具体的な答えがなく、自らの不安と対峙する以外、軽くする方法はないからだ。
そして、この「不安」には厄介な側面がある。
自分ではいかんともしがたい思いのひとつでもあるので、この不安を取り除いてくれるのなら藁にもすがる場合がある、ということだ。
あの、社会的には成功者と思えるようなカリスマバンドであるエックスジャパンのボーカルでさえ、得体の知れない不安に打ち勝てず洗脳されてしまったように、不安は時として心を蝕んでしまう。

いきなりではあるが、第2次世界大戦を引き起こした、ドイツ・ヒットラーのナチズムやイタリア・ムッソリーニのファシズムを「全体主義」と呼ぶ(日本の軍国主義は若干性格を異にするがこれに含むこともある)が、あの破壊的な政治が国民の大歓迎を受けて発足した背景には、この得体のしれない社会不安が民衆の多くに蔓延していたからと、歴史の検証は指摘している。
個々人の力ではぬぐえない不安が社会を覆い、この現状を何とか打破してほしいと多くが感じていたところに、あの「強い指導者」たちが現れた。
その強力な指導者の下で一致団結すれば、現状が打破できる!国民は熱狂して彼らを迎えた。
国民の大勢がそう動いたことで「全体主義」が生まれた、とする分析は、一人一人がわが身を振り返っても心当たりがあるのではないだろうか。
自分はそう思わないが、みんながそう言うなら別に事を荒立て孤立したくない。
みんなと同じであることを重視し空気を読まない人を批判する今の風潮は、その意味でかなり危険な状況をすでにはらんでいるのだろう。

特別措置法に盛り込まれた「緊急事態宣言」、この状況ではなかなか真っ向から反論し辛い「感染防止のため」という文言。
それも総理の一言でそれを発動できるという、強い権限。
個人の権利を大幅にしかも強制的に制限することができるこの法律は、確かに強い力の象徴といえる。
けれど、総理が法的な根拠もない中で出した「要請」にこれだけ粛々と協力する日本の中で、こうした強権的な法律が本当に必要なのか、それに関して全く議論が進んでいない。
そもそも冒頭に書いた学校の一斉休校だが、インフルエンザ等の感染症の場合、学校で感染が広がった結果学級閉鎖や学校閉鎖が行われることが通常だ。
けれど、いろいろ調べているのだが、新型コロナがクラスに蔓延し学級閉鎖に追い込まれたという例は、中国や韓国からも、どこからも報告されていない(日本語ニュースしか読んでいないが)。
子どもの発症は屋内を中心に大人からうつされていることがほとんどで、子ども同士がうつし合うといった報告自体が見当たらないのだ。
つまり、この新型コロナは、基本的に子どもは罹りにくいのではないのだろうか。
それなのに全校一斉休校を要請し、緊急事態宣言ができるようにわざわざした。
しかもそのどちらも、専門家からは全くその必要性は指摘されていないという。
それどころか、むしろ首をかしげる専門家すら少なくない。
それを指導力と呼ぶのか、政権濫用による権力の誇示と呼ぶのか、その指導力に大きな期待を寄せて任せてしまうのか、危険な側面もあると自分自身の頭で考えようとするのか、自分の中の不安分子をしっかり見つめながら、一度立ち止まって考える必要がある。

長くなった最後に、子どもや親に呼びかけたい。
この状況においては、「絶対に感染しない」予防方法はそもそもないと考える。
大切なことは、そのリスクをいかに下げられるか、と言うことと、そのリスクと我慢を強いることで起こりうるマイナス面を比較したとき、本当に我慢を強いることが適切か、という観点だろう。
ぼくが進めてきた冒険遊び場は、屋外で雑菌だらけだ。
舞い立つ土埃、地べたをハイハイする、汚れた手を口に運ぶ、どろを口にする子も珍しくない。
ここで遊ぶ子は日ごろから免疫をフル稼働だ。
だから、ここで子育てを始めた親は、口をそろえて言う。
うちの子は風邪をひかなくなった、と。
それともうひとつ。
雑菌だらけということは、細菌やウィルスにとっても新たに縄張りを獲得することが難しい。
微小な世界でも縄張り争いは激しく、新参者の細菌やウィルスは簡単には居心地のいいスペースを獲得できない。
むしろしっかり殺菌してしまうから、がら空きの縄張りに大喜びして新参者が飛び込み繁殖してしまう。
なので、ドアノブは殺菌よりどろを塗りたくれ、と僕は言いたいくらいだ。
免疫力を高める上では太陽の日を浴びることも不可欠で、屋外での遊びは最高の効果を発揮する。
それでも、罹るときには罹ることはあるが、屋内でも罹患するリスクはなくならない。
ならば、親子ともども屋内に閉じ込もりストレスをため、そしてストレスは免疫を下げ、という悪循環のでに陥るよりずっとましではないか。
外側の危険を取り除くことも大事だが、完璧になど不可能な以上内側から危険をはねのける力を蓄えること以上に重要なことはない。
ことに温暖化の中どんな病原体がこれからも現れるかわからない時代だからこそ、免疫力という内側こそ鍛えておく必要があるし、ストレスに強い心を養っていく必要がある。
遊ぶことが、その力を育てる上で不可欠であることを改めて知ってほしい。

3月10日・東京大空襲、11日・東日本大震災とそれに続く原発事件、それ以外ここ数年を見ても大きな出来事で熊本地震、九州北部豪雨、西日本豪雨、北海道地震、台風による大水害等、人は多くの困難に直面してきた。
東日本大震災の被災者は、9年間、その問題と向き合い続けてきている。
問題が起きて数か月のコロナとは、比較にならない苦闘の時間だ。
子どもの希望のためにも、大人は我をしっかり保ち、前を向いていたい。

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