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3月

2021年03月10日
僕の母は、この3月で90歳を迎える。
東京の下町である両国で育ち、東京大空襲にもあった。
いくつもの死体をまたいで逃げ惑った記憶は、その臭いとともに今でも鮮明に残っているという。
決して風化しない、そう語っていた。

東日本大震災から、今月11日で10年。
テレビでは、あの時の記録を掘り起こすに様々な番組を組み、流している。
それを見ていると、僕でも鼓動が高鳴るのが分かるくらいだ。
果たして、実際の被災者はこの画面を見ることができているのだろうか。
見ていたとしたら、そこから湧き出す思いとは、一体どのようなものなのだろうか。
それを思うだけで、また苦しさがあふれてくる。

被災は、誰にでも分け隔てなく起きる。
被災した子どもの気持ちなど、まったく語られることがなかった阪神淡路大震災。
1995年1月17日発災、その月の26日には被災地入りし2月3日に遊び場を立ち上げた。
神戸市長田区のその一帯は、爆心地のように家々が燃え尽きるか押しつぶされていた。
その記憶は、被災していない僕自身も色あせることがない。
その遊び場は5か月で終了したが、災害時においても、遊ぶことが子どもの快復に大きな力を発揮することを実感させた。
その遊び場での子どもの一言、
「地震があって、ひとつだけいいことがあった。学校も塾もみんななくなった。だから友達と遊べる」
友達と遊ぶ、子どもにとっては当たり前の、ただそれだけのことを手にするのにこれだけの破壊が必要なのか。
知ってはいたつもりの子どもの現状。
それを「そんなものじゃない!」と突きつけられた気がして、愕然としたことを覚えている。
そして、東日本大震災での子どもからも同様の言葉を聞いた。
復興が進み、生活が以前に戻るにつれ遊ぶ時間も仲間も減っていく状況に
「また地震が起きればいいのに」と話した子さえいる。

被災者、と言っても決してひとくくりで語ってはいけないのだろうと思う。
長い避難生活を経て、新たな土地で新しい人間関係を築き、今を生きている人がいる。
決して元の姿ではないふるさとに帰り、なじみの関係で今を生きる人がいる。
いまだに帰還できないふるさとを思い、今を生きる人がいる。
経済的には安定した人もいれば、貧困のどん底にある人もいる。
家族を失った人がいる。
失った家族はいなくても、それをきっかけに家庭の崩壊の苦しみを味わった人がいる。
家族や友人を失くしても、また失くさなくても、だから感謝を実感した人がいる。
この10年という歳月はだれにも平等だが、その実態は、100人いればその数だけある。

大震災の記憶がない子どもたちが、被災者の家族にも増えていく。
かつての故郷を語り継いでいこうとする大人と、前だけを向いて生きようとする子ども。
きっと、そこにも葛藤があるに違いない。

神戸市の公園課長だった人から、今年度連絡をもらった。
「震災後に、子どもを思いこの神戸で遊び場を展開したことは、
神戸の公園史上、絶対に伝えなくてはならないことだと思っている」。
そう言ってくれたことに、心から感謝したいと思った。
当時、遊び場を残したいと様々なところに掛け合ったが、どこもちんぷんかんぷんな反応だった。
元課長のその言葉は、子どもへのまなざしの社会の変化を表すものだと、僕は思った。
これは、喜んでいい。

「原発は完全にコントロールされている」
東京オリンピック招致の時に、安倍元首相が言った言葉だ。
少なく見積もっても、汚染水も汚染土もあふれんばかりで処理方法も決まっていない状況でのこの発言。
いじめられている子がそれを訴えているのに、
校長も教育長も「この学校にはいじめはありません」と言い切っている、それと一緒だ。
その時のいじめられている子どもの絶望感は、どれだけのものなのだろう。
自分の存在自体が、亡き者にされてしまう。
そしてまだ、政府は原発を推進しようとしている。
あれだけの命や暮らしと引き換えに、彼らが学んだことは何だったのだろうか。

東日本大震災以降だけでも、記憶に残る大きな被害を出した、大阪、熊本、北海道の地震。
先月13日には、福島県沖を震源としたM7,1の地震が再びあった。
東京の揺れに、テレビが緊急地震情報で震源のテロップを流した時、10年前の余震だと直感した。
10年は、終わっていない。
それを、警告するかのようだった。
東北沖でたまったひずみが放出されたなら、その結果生じたひずみが
同じ太平洋側のプレートの沈み込み帯に及ぶと思うのは、僕だけではないだろう。
東海地震、南海トラフ地震。
これらの始まりなのだと思ったほうがいい。

10年たった、と、ここで区切りを、と人は言うし、僕自身も一度区切ろうと思う。
けれど、被災した人に区切りはないことは、僕の母の戦争の記憶からもわかる。

10年という歳月は、あっという間にも思えるが、長い。
被災していなくても、健康を害したり家庭事情が大きく変化したりするのには十分な年月だ。
その年に生まれた子どもは小学4年生になり、小学4年生だった子は成人した。
そして今、コロナ禍にある。
被災の痛手から抜けられずにいる人にとっては、いかばかりか、と思う。

「歌おう、ふるさと」を提案した時、「あなたのような人がいるから被災者は傷つく」と
被災した当事者から言われ、「やめてほしい」と頼まれた。
この10年、この言葉はずっと僕の胸の底にあった。
けれど、やはり僕たちにとってこれは必要なことだったと、今、思っている。
これをしていなかったら、今でも忘れずに思うことができていたという自信が、自分にはない。

毎月11日に、「ふるさと」を羽根木プレーパークで一緒に歌った人がいる。
別の場所で、歌っていた人もいる。
病気を押して「3月11日には絶対行くから」、と声をかけてくれた人がいる。
毎月書くこの文章を、ブログに上げ続けてくれた人がいる。
10年間使い続けた、模造紙に書いた「ふるさと」の歌詞と、「歌おう!ふるさと」ののぼり。
東日本大震災がつないでくれた、たくさんの人やものたち。

気仙沼に立ちあげた遊び場は、地元の人たちの手で、さらに元気だ。
子ども食堂や学習支援、就労の支援まで行っている。
子どもが地域の縁をつなぎ、ふるさとが生まれ、そこに未来が切り拓かれていく。
「忘れない」ではなく「伝え続ける」、今はそう決めている。

10年間、ありがとうございました。

ブログ「歌おう!ふるさと」 2021年3月 天野秀昭


1月

2021年01月14日
2021年を迎えた。
東日本大震災、巨大津波、原発爆発事故、これらからちょうど10年を迎える年でもある。
10年ひと昔というが、今のこの状況はだれも予想しなかったろう。
通常なら10年を迎えるこの年にはいくつもの特番が組まれ、この10年の振り返りも行われるのだろうが、
今回に関してはなかなかそうもいかないように思う。
「忘れられることが一番怖い」。
幾人もの当事者から聞いた言葉だが、このコロナ禍にあっては、関連する式典自体の開催すら危ぶまれる。
被災した方々の気持ちはいかばかりのものか、察するに余りある。

ところで、前月書いた文に一部不正確な言葉遣いがあった。
「同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したものを使っていた。
それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。」
従来のワクチンにも、遺伝子組み換え技術は使われていた。
今、アメリカやイギリスで使われ始めているかつて例がない「mRNA」「DNA」を使ったワクチンは、
組み換えではなく、遺伝子と同じ性質を合成しそれを注入して免疫応答を誘うものだと書くのが正しいようだ。

そして、日本で開発が進むワクチンには前述のタイプのものもあるようだが、
これとは別に、従来の手法を踏襲したものが治験の段階に入っているようだ。
従来の、というのは、ウィルスそのものを弱毒化、あるいは無毒化したものだ。
今年中には実用化し、数千万人分が準備できるのだという。
実用化には確かに後れを取ってはいるが(それでも異例のスピードだ!)、
安全性にかけては今使われているものより確認がされているワクチンとなる予感がある
(とはいえ、従来のワクチンも完全にノーリスクというわけではない。
ワクチンによってこの確率は違うが1000万人に数~数十例、副反応が出ることがあり、中には重篤なものもある)。

これ自体は朗報だが、実は本当に有効なワクチンは作れないのだろうと思っている。
インフルエンザがそうであるように、相手は変異がとても速いタイプのウィルスだ。
あるタイプのコロナに有効なワクチンができても、すぐにそれが効かないタイプに変異する。
そのイタチごっこになっていくのではないだろかと思われる。
だから無駄だ、と言っているのではない。
新型コロナの終息はおそらくない、と腹をくくる必要があると考えているのだ。

事実、イギリスや南アフリカで今猛威を振るい始めている変異種は、
一昨年武漢で発見されていたものと比べ数十カ所もの変異が認められており、元から見ると相当違うのだそうだ。
しかも、この両者はまったく別の変異を繰り返している。
そのスピードは、専門家の予測を超えているようだ。
さらに、いずれも感染力は今のものよりそれなりに強く、
今まではさほど報告がなかった子どもへの感染も高いと報告されている。
現時点ですでにこの両者ともが日本で確認されており、
さらに、日本で変異したと思われるものも報告され始めている。
これは今まで以上の懸念材料ではある。
けれど、変異自体が恐ろしいわけでは、決してない。

ウィルスは、生き物の細胞に取り付いて初めて増殖できるようになる。
つまり、自分が棲む生き物が死んでしまっては、元も子もないわけだ。
なので、自然界では自分が棲む生き物に、ウィルスは悪さをすることなく生き続けている。
棲みかとしている生き物を宿主(しゅくしゅ)と呼ぶが、これがほかの生き物に変わったとき、
ウィルスもどうふるまっていいのかわからないので、もろとも死んでしまう場合がある。
宿主が死んでしまっては、もちろんウィルスだって生き残ることは難しい。
宿主を殺さず自分も生き残るウィルスが、次第にスタンダードになっていく。
つまり、変異を重ねて生き残るということは、最終的には毒性が弱まることになる。
実際、今の自分たちの体にも、数えきれないほどのウィルスや細菌が棲みついている。
空気中にも地中にも、これらは無数に存在しているのだ。
発症しなければ何の問題もない、すごく普通のことだ。
それどころか、細菌の中にはそれがいないと人は生きていかれないものもあるし、
ウィルスはその遺伝子を人が取り込んだおかげでできた進化すらある。
ただ、そこにたどり着くまで、おそらく現代人は待てないのだろうが。

現代は、都市化がすさまじい勢いで進行する時代だ。
「こうすればこうなる」「こうするためにこうする」。
都市化から生まれる思考回路は、因果関係が明らかで人知を超えてはならない。
何でもかんでもエビデンスというのは、その証だろう。
それを超えるものは理解不可能なものとして、恐怖や不安、あるいは嘲笑の対象となる。
なので、都市化は環境自体を理解可能、あるいは目的達成のための人工物で埋め尽くす。
その時の最大の敵は、何が起きるかわからない自然界だということになる。
高尾に猿が出てもだれも騒がないが、六本木に出たら大騒ぎになるのは、
猿ほどの自然は都市には理解不可能だからだ。

だから、人とは言え猿に最も近い子どもは、早いうちにしつけという都市化を強いられる。
そして、自然界にある新型コロナは人知を超えているので不安を掻き立てるが、
科学的知見に裏付けられた人口ワクチンには飛びつく。
その意味で、原子力発電所は都市化の最たるものの一つだといえる。
核物質をこうコントロールすればエネルギーを生める。
こうすればこうなる、の思考回路だ。
その結果がどうなったかは10年前に経験済みのはずなのに、
人は10年程度では本質的な進歩はしないのだろう。
環境から学び変異を繰り返すコロナのほうが、この点においてははるかに柔軟で賢い。

新型コロナウィルスに振り回されている場合ではない。
それを冷静に見つめる上でも、2か月後に控えた「震災から10年」、この間に何を学んだのか、もっと深く思いを至らせることが必要なのではないだろうか。

12月

2020年12月21日
新型コロナウィルスが、世界を席巻し続けている。
脅威がどのくらいのものかは別として、各国の混乱ぶりから言えば、
これはもう世界同時に起こっている未曽有の災害だと言えるのだろう。
世界中が、こぞってワクチンの開発に躍起になっている。
一般的にワクチンの場合、有効性、安全性の確認のために通常10年かかるとされている。
しかし、今回は1年を目安に世に出すことを目的に掲げている。
まったく、空前のスピードだ。
しかも、従来のワクチンではいまだ承認を受けたことがない
全く新しいシステムを導入しているワクチンが、複数含まれている。
それが「mRNA(メッセンジャーアールエヌエー)」「DNA(ディーエヌエー)」を
使ったワクチンで、直接ある種の遺伝子を注入して人の免疫反応を引き起こす仕組みのようだ。

これらは、近年格段に進歩した遺伝子操作によるものだという。
そんなもの、体に入れて本当に大丈夫なのだろうか。
とても気になったので調べてはみたが、開発途上だからなのかもしれないが、実体がなかなかわからない。
例えば、病気や寒さに強い穀類をつくる場合、人は長い間自然界のそれらに耐性があると思われた
個体同士を掛け合わせて、少しずつ品種改良を行ってきた。
人工的な交配で生まれた新しい品種だが、それでも自然の摂理を侵してはいなかった。
ところが遺伝子の解析が進み、病気や寒さに強い遺伝子の特定ができるようになると、
その遺伝子だけを組み込んで新しい品種を作るようになった。
これが「遺伝子組み換え」食品だ。
人工的に組み換えた遺伝子を食べ物として体に取り込んだ場合、生体に何が起きるのか。
安全に問題はないとそれを進める側は言うが、その実証には数世代にわたる時間がかかるともいわれ、
食品としての安全上、手にする側が選択できるようそれを明記することが法律で定められた。
同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したもの使っていた。
それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。
なので化学工場での量産が可能となり、承認されれば一気にそれが広まることが予想される。
食品はまだ、「消化」という関門を通らなければならず、一度はバラバラに分解もされる。
けれど、ワクチンは、直接生体に注入するものだ。

通常なら、例えばアメリカで新しいワクチンが承認されたとしても、人種が違う場合
その有効性や安全性が確かではないため、日本でもその確認のために治験の期間を置く。
けれど、今回の場合、例外的にその期間を省く(または極端に短くする)ことになる
可能性が高いと感じている。
それも、人工的に遺伝子を操作したワクチンという前例がないものを、だ。
その時、果たしてそれを「使わない」という選択肢は自由に保障されているのだろうか。
「新型コロナの蔓延を防ぐため」という大義の元、公的資金を拠出し、ただなのだから(あるいは格安なのだから)
打ってくださいと、ほとんど義務のように言われだすのではないだろうか。
新たなワクチンを「使わない」者は感染拡大防止に非協力な者だ、という同調圧力がかからないわけがないとは、
今までの騒ぎを見ていれば誰でも思うところだ。

この「新型」ワクチン、調べてわかったのは、安全性に疑問を投げかける専門家が相応にいる、ということだ。
報道からはワクチンの開発ばかりに光が当たり、できれば安心という論調しか聞こえてこないのはなぜだろう。
そのワクチンが危険である可能性に目を光らせるのも報道の責務だと思うのだが、僕が知る限り
それを積極的に伝える報道には出会っていない。

新型コロナ、これを怖いものだとばかり意識づけられると、きっと多くの人が「藁をもすがる」気分になるのだろう。
経済をとにかくすぐに立ち直らせるためには、
即効性があるものをすぐに手に入れる必要があると大多数が思わされるのだろう。
そう思う人が多ければ多いほど、ワクチンには光しか当たらなくなり、しかもそこには莫大な富も生まれる。
大国と呼ばれる国々がワクチンの開発に激しい競争を繰り広げるのは、
必ずしも新型コロナへの対策、人類の貢献のためばかりではない。

「新型」コロナウィルスは、確かに人類にとっては「未知」だったのかもしれない。
けれど、自然界に存在していたものなのだ。
「新型」ワクチンは、人が研究室で生み出したものだ。
それが生体にどのような影響を及ぼすのか、それこそすべての生物にとって「未知」のものだ。
影響の実証には数世代かかるのだろうが、気づいたときに人は、
もう生物として後戻りできないものとなっている可能性すらある。
自分を通じて、我が子が、我が孫が、脈々とその人工的に作られた遺伝子を受け継いでいくことになるのかもしれない。
パートナーである相手にもその遺伝子があれば、さらに予測が立たない変異を招くかもしれない。
自分の頭で考えろ!
新型コロナウィルスは、そう警告しているのかもしれない。

ひょっとすると、人が人為的に生む究極の「災害」、今がその時である可能性がある。

11月

2020年11月12日
アメリカの大統領選挙は「一応」のカタがつき、民主党のジョー・バイデン氏が勝った。
今の子どもに、日本の首相とアメリカの大統領の名前を聞いたら、
アメリカの大統領の方が正解が多いのではないかと思われるくらい、日本では報道が連日盛んだった。
その報道には、どちらが大統領になったら日本が安泰かを議論する内容も多くあった。
その点については僕にはよくわからないことが多すぎたが、ひとつだけ、確かな違いがあることだけは分かった。
それは、アメリカの「パリ協定」離脱からの復帰だ。

パリ協定は、地球温暖化を人為的なものとして、世界が協力してその原因となっている
温室効果ガスの排出量を抑えようという、達成年を区切り数値目標を掲げて約束しあったものだ。
トランプ氏はその約束はしないと宣言し、つい先日11月4日にそれは現実のものとなった。
アメリカのみならず、オーストラリアや世界の各所で未曽有の山火事が発生し、
記録的なハリケーンが何度も国土を流しても、トランプ氏は、
自身がコロナに罹ってもマスクはしないその態度同様にパリ協定を軽視し続けた結果だった。
世界最大の温室効果ガスの排出国である中国に続く、第二位の排出国であるアメリカ。
当然だが、この国がパリ協定を離脱する影響は計り知れない。
直接的な影響は、温室効果ガスの削減自体にブレーキがかかること。
間接的だがボディブローのように効いてくる影響は、国際社会のリーダーシップを中国が握る可能性が高いことだ。
かつてアメリカがそうだったように、今は中国が突出した温室効果ガスを出しつつ経済成長を遂げている。
皮肉なことに、経済的な豊かさと温室効果ガスの排出量はほぼ比例しているのだ。
単純化すると、エネルギーは、消費すればしただけ経済が活発に動く。
トランプ氏が、アメリカの再生を叫びパリ協定から離脱したのもそれが理由だ。

しかし、当然だが、それで今後のアメリカの輝かしい経済が保証されることは、もはやない。
新型コロナに代表される未知のウィルスの登場もそうだが、先述した未曽有の山火事、ハリケーン、
そして砂漠の拡大や永久凍土の融解、世界の屋根と言われる峰々や極点の氷河・氷床の溶解と流出等々…
それこそ、こうした自然災害による被害額はそれとは比較にならないほど膨大だ。
もっと急務と思われることは、このままの勢いで温暖化が進めば、
まず植物の移動が間に合わないと言われていることだ。
地球的時間では、氷河期と間氷期は交互にやってきており、それこそ地球すべてが凍てつき
アイスボールとなった時代まである(現在は氷河が残っているのでまだ氷河期にある)。
それは数千年から数万年をかけてじわじわと訪れ、
その時間の中で気候の変動に合わせた生物の進化や植生の移動が行われた。
けれど、今の温暖化はこの変化をはるかにしのぐスピードで起きている。
植生の変化が間に合わなければ、植物は壊滅的な打撃を受ける。
ありとあらゆる動物の生命源となってきた植物が壊滅的となることが何を意味するか、
少し考えればわかることだ(肉食獣も草食獣を食べる、その草食獣がいなくなる!)。
おそらくその前から農地に適した場所の争奪が起り、食料そのものの奪取をめぐっての紛争が起きるだろう。

それだけではない。
植生に打撃を与えるくらいになれば、峰々や極点の氷河・氷床は溶け、海面が上昇する。
雪解け水の枯渇は、山岳に住む人たちも直撃するだろう。
世界の多くの主要都市は海岸線につくられており、海面上昇に対してはおそらくなすすべがない。
東京では、臨海部やゼロメートル地帯に人は住めなくなり、地下鉄がほぼ水没し、
都市機能は完全に断たれてしまうかもしれない。
そして、氷が溶けだすということは、氷に閉じ込められていた温室効果ガスが放出されることを意味している。
それが臨界点を超えれば、もはや後戻りができない負のスパイラルが加速度的に繰り返される。
そして、きっとそんなことは、そう遠くない未来に起こりうる。

持続可能な開発と社会―国連はそれを目指し、SDGs(エスディジーズ)基準を定めた。
これからは、個人のエゴとの戦いとなる。
もちろん、僕も含め、ひとりひとりがその当事者だ。
今後は、自然災害はもはやそのまま自然とは呼べない背景も増えるのだろう。
人の知恵と理性がそれを阻止するか、それともエゴに負けてしまうのか。
地球が壊れていくのではない。
地球は、いつだってあるようにしかない。
人をはじめとする、生物が壊れていくのだ。

バイデン氏は、大統領就任初日にパリ協定への復帰を公約していた。
しかし、バイデン氏とトランプ氏が本当に僅差だったことが、現実の難しさを物語っている。
子どもに、安心を残せるのか。
自分自身に問いかける日が続く。

10月

2020年10月13日
今日11日、今も続く羽根木プレーパークでの「歌おう、ふるさと」。
毎回そこにいる人に声掛けをすることもあるが、いまだにそれを目指してきてくださる方々もおり、
今日も20人近い参加があった。
これは先月のことだが、歌い終わったとき、一人の男性の口から言葉が漏れた。
「10年まで、もう5回だなぁ。あと5回しかないよ」
それを聞き、思わず指を折って数えていた。
そしてまた一か月が過ぎ、あと4回となってしまった。

東日本大震災から10年というが、その間、実にさまざまな自然災害に見舞われた。
改めてそれらをネットで調べてみた。
2011年 3月 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
       長野県北部地震(主に栄村)
     4月 福品県浜通り地震(主にいわき市)
     9月 台風12号(主に紀伊半島)
2012年 5月 関東竜巻災害(茨城県)
2013年 8月 猛暑
2013年 10月 台風26号(伊豆大島)
2014年 2月 豪雪(主に中部地方)
     8月 集中豪雨による土砂災害(主に広島市)
     9月 御嶽山噴火
2016年 4月 熊本地震(主に益城町、西原村)
     4月 大分県中部地震(主に由布市、別府市)
     8月 台風7、9、10、11号と前線による豪雨(主に北海道)
2017年 7月 九州北部豪雨(主に福岡県、大分県)
2018年 6月 大阪北部地震
     7月 西日本豪雨(主に広島県、岡山県、愛媛県)
     8月 猛暑
     9月 北海道胆振東部地震(主に厚真町)
2019年 9月 台風15号(主に房総半島)
    10月 台風19号(主に関東地方、東北地方)
2020年 7月 豪雨(主に熊本県、岐阜県、長野県)

改めて見ると、記憶しているものも多くあるが、具体的に思い出せない災害もあることに気づく。
僕が思い出せなくても、当然そこに被災者は確かにまだいて、その後の人生を送っているはずだ。
「私たちをもう被災者と呼ぶな」という声を、被災者から聴いたことがある。
いつまでもそんなところ(被災した時点)にいるわけにはいかない、もう前進しているのだ、という意味だと受け止めたが、そうはいっても、やはり被災の傷が癒えないままの人がいることも事実だ。そしてそれは、多くの場合、その後のケアの問題が深く関係しているとやはり思う。
グラデーション的で確実な線引きができないことが問題を見えにくくしているが、自然災害から放置、あるいは忘却という人災に移行していく、その被災者ならば、それははっきりと「被災者」と呼ばなくてはならない。
僕も含め、自然災害はだれにも等しくやってくる。

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