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1月

2014年01月10日
皆様、新年明けましておめでとうございます。
もう明けて10日もたってしまったのかという思いと、10日しかたっていないのか、
という思いが混在している。
この10日で、とにかくいろいろなことがあった。

わが子が遊ぶ環境をもっと豊かにしようと冒険遊び場を日本にいち早く紹介し、
世田谷の地でそれを実践した大村虔一氏が、1月6日、逝去した。
生まれ育ち、そして終の棲家となった仙台で行われた葬儀は、
とても多くの関係者であふれたようだった。

大村氏は、冒険遊び場の「父」であると同時に、
日本に「都市計画」という視点を持ち込んだ草分け的な存在でもあった。
それまで単体としての建物という視点しかもたなかった建築界に、
その建物があった場合の人の動きの変化、町の機能の変化、経済の変化
そうしたものを織り込んでひとつの建物を考えていくというものの見方だと、
もう30年以上も前に教わった気がする。
この視点は特に公共施設には不可欠だったはずで、多くの公共事業を手がけてきた人でもあった。
今回の震災以降も、だから多くの復興事業、街づくりで引っ張り出され、
委員会や顧問やさまざまな役割を担っていたようだった。
葬儀の会場は、そうした自治体の名前の花がいっぱいだったと聞いた。

ぼくは通夜、告別式共に大学の授業があって出席できなかったため、
通夜の前日に日帰りで自宅を訪ねた。
年をとり貫禄が増していた虔一さんだったが、病気でずいぶんやせていた。
34年前に出会ったときから蓄えられていた髭だが、きれいに剃られ、
ぼくにとってはあまりなじみのある顔ではなかったが、
「昔の虔一兄ちゃんが帰ってきた」と妹さんは話してくれた。
今はすっかり切り開かれた「台原」という所、そこがこの一家が育ったところだった。
山と森ばかりで、その中を駆け回って育ったのだという。
ヤギを飼い、それに餌をやるのが楽しかったと。
今は完全に住宅地と化したその場所からは、その風景が全く思い浮かばない。
けれど、まぶたの奥に思い浮かべて話す妹さんのようすから、ふるさとの思いを感じた。

虔一さんも、そうしたふるさとの原風景を持っていたのだろうな。
それをわが子に少しでも体験させてあげたかったのだろうな。
それが冒険遊び場を生んだのだろうな。
子ども時代にどういう育ちをしたのか、ふるさとはどう刻まれているのか、
虔一さんは、復興事業でどのようなふるさと、東北を描いたのだろうか。
聞きたいことはいろいろあるが、今はもう、ただゆっくりと休んでほしいと願うばかりだ。
虔一さん、ありがとうございました。