歌おう ~震災に対して心をひとつに~ http://utaoufor311.grupo.jp/ 震災応援歌「ふるさと」を、同時刻に日本中・世界中で ja 歌おう ~震災に対して心をひとつに~ http://utaoufor311.grupo.jp/ 3月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3344499 僕の母は、この3月で90歳を迎える。東京の下町である両国で育ち、東京大空襲にもあった。いくつもの死体をまたいで逃げ惑った記憶は、その臭いとともに今でも鮮明に残っているという。決して風化しない、そう語っていた。東日本大震災から、今月11日で10年。テレビでは、あの時の記録を掘り起こすに様々な番組を組み、流している。それを見ていると、僕でも鼓動が高鳴るのが分かるくらいだ。果たして、実際の被災者はこの画面を見ることができているのだろうか。見ていたとしたら、そこから湧き出す思いとは、一体どのようなものなのだろうか。それを思うだけで、また苦しさがあふれてくる。被災は、誰にでも分け隔てなく起きる。被災した子どもの気持ちなど、まったく語られることがなかった阪神淡路大震災。1995年1月17日発災、その月の26日には被災地入りし2月3日に遊び場を立ち上げた。神戸市長田区のその一帯は、爆心地のように家々が燃え尽きるか押しつぶされていた。その記憶は、被災していない僕自身も色あせることがない。その遊び場は5か月で終了したが、災害時においても、遊ぶことが子どもの快復に大きな力を発揮することを実感させた。その遊び場での子どもの一言、「地震があって、ひとつだけいいことがあった。学校も塾もみんななくなった。だから友達と遊べる」友達と遊ぶ、子どもにとっては当たり前の、ただそれだけのことを手にするのにこれだけの破壊が必要なのか。知ってはいたつもりの子どもの現状。それを「そんなものじゃない!」と突きつけられた気がして、愕然としたことを覚えている。そして、東日本大震災での子どもからも同様の言葉を聞いた。復興が進み、生活が以前に戻るにつれ遊ぶ時間も仲間も減っていく状況に「また地震が起きればいいのに」と話した子さえいる。被災者、と言っても決してひとくくりで語ってはいけないのだろうと思う。長い避難生活を経て、新たな土地で新しい人間関係を築き、今を生きている人がいる。決して元の姿ではないふるさとに帰り、なじみの関係で今を生きる人がいる。いまだに帰還できないふるさとを思い、今を生きる人がいる。経済的には安定した人もいれば、貧困のどん底にある人もいる。家族を失った人がいる。失った家族はいなくても、それをきっかけに家庭の崩壊の苦しみを味わった人がいる。家族や友人を失くしても、また失くさなくても、だから感謝を実感した人がいる。この10年という歳月はだれにも平等だが、その実態は、100人いればその数だけある。大震災の記憶がない子どもたちが、被災者の家族にも増えていく。かつての故郷を語り継いでいこうとする大人と、前だけを向いて生きようとする子ども。きっと、そこにも葛藤があるに違いない。神戸市の公園課長だった人から、今年度連絡をもらった。「震災後に、子どもを思いこの神戸で遊び場を展開したことは、神戸の公園史上、絶対に伝えなくてはならないことだと思っている」。そう言ってくれたことに、心から感謝したいと思った。当時、遊び場を残したいと様々なところに掛け合ったが、どこもちんぷんかんぷんな反応だった。元課長のその言葉は、子どもへのまなざしの社会の変化を表すものだと、僕は思った。これは、喜んでいい。「原発は完全にコントロールされている」東京オリンピック招致の時に、安倍元首相が言った言葉だ。少なく見積もっても、汚染水も汚染土もあふれんばかりで処理方法も決まっていない状況でのこの発言。いじめられている子がそれを訴えているのに、校長も教育長も「この学校にはいじめはありません」と言い切っている、それと一緒だ。その時のいじめられている子どもの絶望感は、どれだけのものなのだろう。自分の存在自体が、亡き者にされてしまう。そしてまだ、政府は原発を推進しようとしている。あれだけの命や暮らしと引き換えに、彼らが学んだことは何だったのだろうか。東日本大震災以降だけでも、記憶に残る大きな被害を出した、大阪、熊本、北海道の地震。先月13日には、福島県沖を震源としたM7,1の地震が再びあった。東京の揺れに、テレビが緊急地震情報で震源のテロップを流した時、10年前の余震だと直感した。10年は、終わっていない。それを、警告するかのようだった。東北沖でたまったひずみが放出されたなら、その結果生じたひずみが同じ太平洋側のプレートの沈み込み帯に及ぶと思うのは、僕だけではないだろう。東海地震、南海トラフ地震。これらの始まりなのだと思ったほうがいい。10年たった、と、ここで区切りを、と人は言うし、僕自身も一度区切ろうと思う。けれど、被災した人に区切りはないことは、僕の母の戦争の記憶からもわかる。10年という歳月は、あっという間にも思えるが、長い。被災していなくても、健康を害したり家庭事情が大きく変化したりするのには十分な年月だ。その年に生まれた子どもは小学4年生になり、小学4年生だった子は成人した。そして今、コロナ禍にある。被災の痛手から抜けられずにいる人にとっては、いかばかりか、と思う。「歌おう、ふるさと」を提案した時、「あなたのような人がいるから被災者は傷つく」と被災した当事者から言われ、「やめてほしい」と頼まれた。この10年、この言葉はずっと僕の胸の底にあった。けれど、やはり僕たちにとってこれは必要なことだったと、今、思っている。これをしていなかったら、今でも忘れずに思うことができていたという自信が、自分にはない。毎月11日に、「ふるさと」を羽根木プレーパークで一緒に歌った人がいる。別の場所で、歌っていた人もいる。病気を押して「3月11日には絶対行くから」、と声をかけてくれた人がいる。毎月書くこの文章を、ブログに上げ続けてくれた人がいる。10年間使い続けた、模造紙に書いた「ふるさと」の歌詞と、「歌おう!ふるさと」ののぼり。東日本大震災がつないでくれた、たくさんの人やものたち。気仙沼に立ちあげた遊び場は、地元の人たちの手で、さらに元気だ。子ども食堂や学習支援、就労の支援まで行っている。子どもが地域の縁をつなぎ、ふるさとが生まれ、そこに未来が切り拓かれていく。「忘れない」ではなく「伝え続ける」、今はそう決めている。10年間、ありがとうございました。ブログ「歌おう!ふるさと」2021年3月天野秀昭 2021-03-10T19:56:00+09:00 僕の母は、この3月で90歳を迎える。東京の下町である両国で育ち、東京大空襲にもあった。いくつもの死体をまたいで逃げ惑った記憶は、その臭いとともに今でも鮮明に残っているという。決して風化しない、そう語っていた。東日本大震災から、今月11日で10年。テレビでは、あの時の記録を掘り起こすに様々な番組を組み、流している。それを見ていると、僕でも鼓動が高鳴るのが分かるくらいだ。果たして、実際の被災者はこの画面を見ることができているのだろうか。見ていたとしたら、そこから湧き出す思いとは、一体どのようなものなのだろうか。それを思うだけで、また苦しさがあふれてくる。被災は、誰にでも分け隔てなく起きる。被災した子どもの気持ちなど、まったく語られることがなかった阪神淡路大震災。1995年1月17日発災、その月の26日には被災地入りし2月3日に遊び場を立ち上げた。神戸市長田区のその一帯は、爆心地のように家々が燃え尽きるか押しつぶされていた。その記憶は、被災していない僕自身も色あせることがない。その遊び場は5か月で終了したが、災害時においても、遊ぶことが子どもの快復に大きな力を発揮することを実感させた。その遊び場での子どもの一言、「地震があって、ひとつだけいいことがあった。学校も塾もみんななくなった。だから友達と遊べる」友達と遊ぶ、子どもにとっては当たり前の、ただそれだけのことを手にするのにこれだけの破壊が必要なのか。知ってはいたつもりの子どもの現状。それを「そんなものじゃない!」と突きつけられた気がして、愕然としたことを覚えている。そして、東日本大震災での子どもからも同様の言葉を聞いた。復興が進み、生活が以前に戻るにつれ遊ぶ時間も仲間も減っていく状況に「また地震が起きればいいのに」と話した子さえいる。被災者、と言っても決してひとくくりで語ってはいけないのだろうと思う。長い避難生活を経て、新たな土地で新しい人間関係を築き、今を生きている人がいる。決して元の姿ではないふるさとに帰り、なじみの関係で今を生きる人がいる。いまだに帰還できないふるさとを思い、今を生きる人がいる。経済的には安定した人もいれば、貧困のどん底にある人もいる。家族を失った人がいる。失った家族はいなくても、それをきっかけに家庭の崩壊の苦しみを味わった人がいる。家族や友人を失くしても、また失くさなくても、だから感謝を実感した人がいる。この10年という歳月はだれにも平等だが、その実態は、100人いればその数だけある。大震災の記憶がない子どもたちが、被災者の家族にも増えていく。かつての故郷を語り継いでいこうとする大人と、前だけを向いて生きようとする子ども。きっと、そこにも葛藤があるに違いない。神戸市の公園課長だった人から、今年度連絡をもらった。「震災後に、子どもを思いこの神戸で遊び場を展開したことは、神戸の公園史上、絶対に伝えなくてはならないことだと思っている」。そう言ってくれたことに、心から感謝したいと思った。当時、遊び場を残したいと様々なところに掛け合ったが、どこもちんぷんかんぷんな反応だった。元課長のその言葉は、子どもへのまなざしの社会の変化を表すものだと、僕は思った。これは、喜んでいい。「原発は完全にコントロールされている」東京オリンピック招致の時に、安倍元首相が言った言葉だ。少なく見積もっても、汚染水も汚染土もあふれんばかりで処理方法も決まっていない状況でのこの発言。いじめられている子がそれを訴えているのに、校長も教育長も「この学校にはいじめはありません」と言い切っている、それと一緒だ。その時のいじめられている子どもの絶望感は、どれだけのものなのだろう。自分の存在自体が、亡き者にされてしまう。そしてまだ、政府は原発を推進しようとしている。あれだけの命や暮らしと引き換えに、彼らが学んだことは何だったのだろうか。東日本大震災以降だけでも、記憶に残る大きな被害を出した、大阪、熊本、北海道の地震。先月13日には、福島県沖を震源としたM7,1の地震が再びあった。東京の揺れに、テレビが緊急地震情報で震源のテロップを流した時、10年前の余震だと直感した。10年は、終わっていない。それを、警告するかのようだった。東北沖でたまったひずみが放出されたなら、その結果生じたひずみが同じ太平洋側のプレートの沈み込み帯に及ぶと思うのは、僕だけではないだろう。東海地震、南海トラフ地震。これらの始まりなのだと思ったほうがいい。10年たった、と、ここで区切りを、と人は言うし、僕自身も一度区切ろうと思う。けれど、被災した人に区切りはないことは、僕の母の戦争の記憶からもわかる。10年という歳月は、あっという間にも思えるが、長い。被災していなくても、健康を害したり家庭事情が大きく変化したりするのには十分な年月だ。その年に生まれた子どもは小学4年生になり、小学4年生だった子は成人した。そして今、コロナ禍にある。被災の痛手から抜けられずにいる人にとっては、いかばかりか、と思う。「歌おう、ふるさと」を提案した時、「あなたのような人がいるから被災者は傷つく」と被災した当事者から言われ、「やめてほしい」と頼まれた。この10年、この言葉はずっと僕の胸の底にあった。けれど、やはり僕たちにとってこれは必要なことだったと、今、思っている。これをしていなかったら、今でも忘れずに思うことができていたという自信が、自分にはない。毎月11日に、「ふるさと」を羽根木プレーパークで一緒に歌った人がいる。別の場所で、歌っていた人もいる。病気を押して「3月11日には絶対行くから」、と声をかけてくれた人がいる。毎月書くこの文章を、ブログに上げ続けてくれた人がいる。10年間使い続けた、模造紙に書いた「ふるさと」の歌詞と、「歌おう!ふるさと」ののぼり。東日本大震災がつないでくれた、たくさんの人やものたち。気仙沼に立ちあげた遊び場は、地元の人たちの手で、さらに元気だ。子ども食堂や学習支援、就労の支援まで行っている。子どもが地域の縁をつなぎ、ふるさとが生まれ、そこに未来が切り拓かれていく。「忘れない」ではなく「伝え続ける」、今はそう決めている。10年間、ありがとうございました。ブログ「歌おう!ふるさと」2021年3月天野秀昭 1月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3286336 2021年を迎えた。東日本大震災、巨大津波、原発爆発事故、これらからちょうど10年を迎える年でもある。10年ひと昔というが、今のこの状況はだれも予想しなかったろう。通常なら10年を迎えるこの年にはいくつもの特番が組まれ、この10年の振り返りも行われるのだろうが、今回に関してはなかなかそうもいかないように思う。「忘れられることが一番怖い」。幾人もの当事者から聞いた言葉だが、このコロナ禍にあっては、関連する式典自体の開催すら危ぶまれる。被災した方々の気持ちはいかばかりのものか、察するに余りある。ところで、前月書いた文に一部不正確な言葉遣いがあった。「同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したものを使っていた。それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。」従来のワクチンにも、遺伝子組み換え技術は使われていた。今、アメリカやイギリスで使われ始めているかつて例がない「mRNA」「DNA」を使ったワクチンは、組み換えではなく、遺伝子と同じ性質を合成しそれを注入して免疫応答を誘うものだと書くのが正しいようだ。そして、日本で開発が進むワクチンには前述のタイプのものもあるようだが、これとは別に、従来の手法を踏襲したものが治験の段階に入っているようだ。従来の、というのは、ウィルスそのものを弱毒化、あるいは無毒化したものだ。今年中には実用化し、数千万人分が準備できるのだという。実用化には確かに後れを取ってはいるが(それでも異例のスピードだ!)、安全性にかけては今使われているものより確認がされているワクチンとなる予感がある(とはいえ、従来のワクチンも完全にノーリスクというわけではない。ワクチンによってこの確率は違うが1000万人に数~数十例、副反応が出ることがあり、中には重篤なものもある)。これ自体は朗報だが、実は本当に有効なワクチンは作れないのだろうと思っている。インフルエンザがそうであるように、相手は変異がとても速いタイプのウィルスだ。あるタイプのコロナに有効なワクチンができても、すぐにそれが効かないタイプに変異する。そのイタチごっこになっていくのではないだろかと思われる。だから無駄だ、と言っているのではない。新型コロナの終息はおそらくない、と腹をくくる必要があると考えているのだ。事実、イギリスや南アフリカで今猛威を振るい始めている変異種は、一昨年武漢で発見されていたものと比べ数十カ所もの変異が認められており、元から見ると相当違うのだそうだ。しかも、この両者はまったく別の変異を繰り返している。そのスピードは、専門家の予測を超えているようだ。さらに、いずれも感染力は今のものよりそれなりに強く、今まではさほど報告がなかった子どもへの感染も高いと報告されている。現時点ですでにこの両者ともが日本で確認されており、さらに、日本で変異したと思われるものも報告され始めている。これは今まで以上の懸念材料ではある。けれど、変異自体が恐ろしいわけでは、決してない。ウィルスは、生き物の細胞に取り付いて初めて増殖できるようになる。つまり、自分が棲む生き物が死んでしまっては、元も子もないわけだ。なので、自然界では自分が棲む生き物に、ウィルスは悪さをすることなく生き続けている。棲みかとしている生き物を宿主(しゅくしゅ)と呼ぶが、これがほかの生き物に変わったとき、ウィルスもどうふるまっていいのかわからないので、もろとも死んでしまう場合がある。宿主が死んでしまっては、もちろんウィルスだって生き残ることは難しい。宿主を殺さず自分も生き残るウィルスが、次第にスタンダードになっていく。つまり、変異を重ねて生き残るということは、最終的には毒性が弱まることになる。実際、今の自分たちの体にも、数えきれないほどのウィルスや細菌が棲みついている。空気中にも地中にも、これらは無数に存在しているのだ。発症しなければ何の問題もない、すごく普通のことだ。それどころか、細菌の中にはそれがいないと人は生きていかれないものもあるし、ウィルスはその遺伝子を人が取り込んだおかげでできた進化すらある。ただ、そこにたどり着くまで、おそらく現代人は待てないのだろうが。現代は、都市化がすさまじい勢いで進行する時代だ。「こうすればこうなる」「こうするためにこうする」。都市化から生まれる思考回路は、因果関係が明らかで人知を超えてはならない。何でもかんでもエビデンスというのは、その証だろう。それを超えるものは理解不可能なものとして、恐怖や不安、あるいは嘲笑の対象となる。なので、都市化は環境自体を理解可能、あるいは目的達成のための人工物で埋め尽くす。その時の最大の敵は、何が起きるかわからない自然界だということになる。高尾に猿が出てもだれも騒がないが、六本木に出たら大騒ぎになるのは、猿ほどの自然は都市には理解不可能だからだ。だから、人とは言え猿に最も近い子どもは、早いうちにしつけという都市化を強いられる。そして、自然界にある新型コロナは人知を超えているので不安を掻き立てるが、科学的知見に裏付けられた人口ワクチンには飛びつく。その意味で、原子力発電所は都市化の最たるものの一つだといえる。核物質をこうコントロールすればエネルギーを生める。こうすればこうなる、の思考回路だ。その結果がどうなったかは10年前に経験済みのはずなのに、人は10年程度では本質的な進歩はしないのだろう。環境から学び変異を繰り返すコロナのほうが、この点においてははるかに柔軟で賢い。新型コロナウィルスに振り回されている場合ではない。それを冷静に見つめる上でも、2か月後に控えた「震災から10年」、この間に何を学んだのか、もっと深く思いを至らせることが必要なのではないだろうか。 2021-01-14T06:28:00+09:00 2021年を迎えた。東日本大震災、巨大津波、原発爆発事故、これらからちょうど10年を迎える年でもある。10年ひと昔というが、今のこの状況はだれも予想しなかったろう。通常なら10年を迎えるこの年にはいくつもの特番が組まれ、この10年の振り返りも行われるのだろうが、今回に関してはなかなかそうもいかないように思う。「忘れられることが一番怖い」。幾人もの当事者から聞いた言葉だが、このコロナ禍にあっては、関連する式典自体の開催すら危ぶまれる。被災した方々の気持ちはいかばかりのものか、察するに余りある。ところで、前月書いた文に一部不正確な言葉遣いがあった。「同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したものを使っていた。それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。」従来のワクチンにも、遺伝子組み換え技術は使われていた。今、アメリカやイギリスで使われ始めているかつて例がない「mRNA」「DNA」を使ったワクチンは、組み換えではなく、遺伝子と同じ性質を合成しそれを注入して免疫応答を誘うものだと書くのが正しいようだ。そして、日本で開発が進むワクチンには前述のタイプのものもあるようだが、これとは別に、従来の手法を踏襲したものが治験の段階に入っているようだ。従来の、というのは、ウィルスそのものを弱毒化、あるいは無毒化したものだ。今年中には実用化し、数千万人分が準備できるのだという。実用化には確かに後れを取ってはいるが(それでも異例のスピードだ!)、安全性にかけては今使われているものより確認がされているワクチンとなる予感がある(とはいえ、従来のワクチンも完全にノーリスクというわけではない。ワクチンによってこの確率は違うが1000万人に数~数十例、副反応が出ることがあり、中には重篤なものもある)。これ自体は朗報だが、実は本当に有効なワクチンは作れないのだろうと思っている。インフルエンザがそうであるように、相手は変異がとても速いタイプのウィルスだ。あるタイプのコロナに有効なワクチンができても、すぐにそれが効かないタイプに変異する。そのイタチごっこになっていくのではないだろかと思われる。だから無駄だ、と言っているのではない。新型コロナの終息はおそらくない、と腹をくくる必要があると考えているのだ。事実、イギリスや南アフリカで今猛威を振るい始めている変異種は、一昨年武漢で発見されていたものと比べ数十カ所もの変異が認められており、元から見ると相当違うのだそうだ。しかも、この両者はまったく別の変異を繰り返している。そのスピードは、専門家の予測を超えているようだ。さらに、いずれも感染力は今のものよりそれなりに強く、今まではさほど報告がなかった子どもへの感染も高いと報告されている。現時点ですでにこの両者ともが日本で確認されており、さらに、日本で変異したと思われるものも報告され始めている。これは今まで以上の懸念材料ではある。けれど、変異自体が恐ろしいわけでは、決してない。ウィルスは、生き物の細胞に取り付いて初めて増殖できるようになる。つまり、自分が棲む生き物が死んでしまっては、元も子もないわけだ。なので、自然界では自分が棲む生き物に、ウィルスは悪さをすることなく生き続けている。棲みかとしている生き物を宿主(しゅくしゅ)と呼ぶが、これがほかの生き物に変わったとき、ウィルスもどうふるまっていいのかわからないので、もろとも死んでしまう場合がある。宿主が死んでしまっては、もちろんウィルスだって生き残ることは難しい。宿主を殺さず自分も生き残るウィルスが、次第にスタンダードになっていく。つまり、変異を重ねて生き残るということは、最終的には毒性が弱まることになる。実際、今の自分たちの体にも、数えきれないほどのウィルスや細菌が棲みついている。空気中にも地中にも、これらは無数に存在しているのだ。発症しなければ何の問題もない、すごく普通のことだ。それどころか、細菌の中にはそれがいないと人は生きていかれないものもあるし、ウィルスはその遺伝子を人が取り込んだおかげでできた進化すらある。ただ、そこにたどり着くまで、おそらく現代人は待てないのだろうが。現代は、都市化がすさまじい勢いで進行する時代だ。「こうすればこうなる」「こうするためにこうする」。都市化から生まれる思考回路は、因果関係が明らかで人知を超えてはならない。何でもかんでもエビデンスというのは、その証だろう。それを超えるものは理解不可能なものとして、恐怖や不安、あるいは嘲笑の対象となる。なので、都市化は環境自体を理解可能、あるいは目的達成のための人工物で埋め尽くす。その時の最大の敵は、何が起きるかわからない自然界だということになる。高尾に猿が出てもだれも騒がないが、六本木に出たら大騒ぎになるのは、猿ほどの自然は都市には理解不可能だからだ。だから、人とは言え猿に最も近い子どもは、早いうちにしつけという都市化を強いられる。そして、自然界にある新型コロナは人知を超えているので不安を掻き立てるが、科学的知見に裏付けられた人口ワクチンには飛びつく。その意味で、原子力発電所は都市化の最たるものの一つだといえる。核物質をこうコントロールすればエネルギーを生める。こうすればこうなる、の思考回路だ。その結果がどうなったかは10年前に経験済みのはずなのに、人は10年程度では本質的な進歩はしないのだろう。環境から学び変異を繰り返すコロナのほうが、この点においてははるかに柔軟で賢い。新型コロナウィルスに振り回されている場合ではない。それを冷静に見つめる上でも、2か月後に控えた「震災から10年」、この間に何を学んだのか、もっと深く思いを至らせることが必要なのではないだろうか。 12月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3262711 新型コロナウィルスが、世界を席巻し続けている。脅威がどのくらいのものかは別として、各国の混乱ぶりから言えば、これはもう世界同時に起こっている未曽有の災害だと言えるのだろう。世界中が、こぞってワクチンの開発に躍起になっている。一般的にワクチンの場合、有効性、安全性の確認のために通常10年かかるとされている。しかし、今回は1年を目安に世に出すことを目的に掲げている。まったく、空前のスピードだ。しかも、従来のワクチンではいまだ承認を受けたことがない全く新しいシステムを導入しているワクチンが、複数含まれている。それが「mRNA(メッセンジャーアールエヌエー)」「DNA(ディーエヌエー)」を使ったワクチンで、直接ある種の遺伝子を注入して人の免疫反応を引き起こす仕組みのようだ。これらは、近年格段に進歩した遺伝子操作によるものだという。そんなもの、体に入れて本当に大丈夫なのだろうか。とても気になったので調べてはみたが、開発途上だからなのかもしれないが、実体がなかなかわからない。例えば、病気や寒さに強い穀類をつくる場合、人は長い間自然界のそれらに耐性があると思われた個体同士を掛け合わせて、少しずつ品種改良を行ってきた。人工的な交配で生まれた新しい品種だが、それでも自然の摂理を侵してはいなかった。ところが遺伝子の解析が進み、病気や寒さに強い遺伝子の特定ができるようになると、その遺伝子だけを組み込んで新しい品種を作るようになった。これが「遺伝子組み換え」食品だ。人工的に組み換えた遺伝子を食べ物として体に取り込んだ場合、生体に何が起きるのか。安全に問題はないとそれを進める側は言うが、その実証には数世代にわたる時間がかかるともいわれ、食品としての安全上、手にする側が選択できるようそれを明記することが法律で定められた。同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したもの使っていた。それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。なので化学工場での量産が可能となり、承認されれば一気にそれが広まることが予想される。食品はまだ、「消化」という関門を通らなければならず、一度はバラバラに分解もされる。けれど、ワクチンは、直接生体に注入するものだ。通常なら、例えばアメリカで新しいワクチンが承認されたとしても、人種が違う場合その有効性や安全性が確かではないため、日本でもその確認のために治験の期間を置く。けれど、今回の場合、例外的にその期間を省く(または極端に短くする)ことになる可能性が高いと感じている。それも、人工的に遺伝子を操作したワクチンという前例がないものを、だ。その時、果たしてそれを「使わない」という選択肢は自由に保障されているのだろうか。「新型コロナの蔓延を防ぐため」という大義の元、公的資金を拠出し、ただなのだから(あるいは格安なのだから)打ってくださいと、ほとんど義務のように言われだすのではないだろうか。新たなワクチンを「使わない」者は感染拡大防止に非協力な者だ、という同調圧力がかからないわけがないとは、今までの騒ぎを見ていれば誰でも思うところだ。この「新型」ワクチン、調べてわかったのは、安全性に疑問を投げかける専門家が相応にいる、ということだ。報道からはワクチンの開発ばかりに光が当たり、できれば安心という論調しか聞こえてこないのはなぜだろう。そのワクチンが危険である可能性に目を光らせるのも報道の責務だと思うのだが、僕が知る限りそれを積極的に伝える報道には出会っていない。新型コロナ、これを怖いものだとばかり意識づけられると、きっと多くの人が「藁をもすがる」気分になるのだろう。経済をとにかくすぐに立ち直らせるためには、即効性があるものをすぐに手に入れる必要があると大多数が思わされるのだろう。そう思う人が多ければ多いほど、ワクチンには光しか当たらなくなり、しかもそこには莫大な富も生まれる。大国と呼ばれる国々がワクチンの開発に激しい競争を繰り広げるのは、必ずしも新型コロナへの対策、人類の貢献のためばかりではない。「新型」コロナウィルスは、確かに人類にとっては「未知」だったのかもしれない。けれど、自然界に存在していたものなのだ。「新型」ワクチンは、人が研究室で生み出したものだ。それが生体にどのような影響を及ぼすのか、それこそすべての生物にとって「未知」のものだ。影響の実証には数世代かかるのだろうが、気づいたときに人は、もう生物として後戻りできないものとなっている可能性すらある。自分を通じて、我が子が、我が孫が、脈々とその人工的に作られた遺伝子を受け継いでいくことになるのかもしれない。パートナーである相手にもその遺伝子があれば、さらに予測が立たない変異を招くかもしれない。自分の頭で考えろ!新型コロナウィルスは、そう警告しているのかもしれない。ひょっとすると、人が人為的に生む究極の「災害」、今がその時である可能性がある。 2020-12-21T03:50:00+09:00 新型コロナウィルスが、世界を席巻し続けている。脅威がどのくらいのものかは別として、各国の混乱ぶりから言えば、これはもう世界同時に起こっている未曽有の災害だと言えるのだろう。世界中が、こぞってワクチンの開発に躍起になっている。一般的にワクチンの場合、有効性、安全性の確認のために通常10年かかるとされている。しかし、今回は1年を目安に世に出すことを目的に掲げている。まったく、空前のスピードだ。しかも、従来のワクチンではいまだ承認を受けたことがない全く新しいシステムを導入しているワクチンが、複数含まれている。それが「mRNA(メッセンジャーアールエヌエー)」「DNA(ディーエヌエー)」を使ったワクチンで、直接ある種の遺伝子を注入して人の免疫反応を引き起こす仕組みのようだ。これらは、近年格段に進歩した遺伝子操作によるものだという。そんなもの、体に入れて本当に大丈夫なのだろうか。とても気になったので調べてはみたが、開発途上だからなのかもしれないが、実体がなかなかわからない。例えば、病気や寒さに強い穀類をつくる場合、人は長い間自然界のそれらに耐性があると思われた個体同士を掛け合わせて、少しずつ品種改良を行ってきた。人工的な交配で生まれた新しい品種だが、それでも自然の摂理を侵してはいなかった。ところが遺伝子の解析が進み、病気や寒さに強い遺伝子の特定ができるようになると、その遺伝子だけを組み込んで新しい品種を作るようになった。これが「遺伝子組み換え」食品だ。人工的に組み換えた遺伝子を食べ物として体に取り込んだ場合、生体に何が起きるのか。安全に問題はないとそれを進める側は言うが、その実証には数世代にわたる時間がかかるともいわれ、食品としての安全上、手にする側が選択できるようそれを明記することが法律で定められた。同様に、従来のワクチンも、自然界のものの毒性を弱めたり無害化したもの使っていた。それが、遺伝子を組み換えたワクチンが開発されているということになる。なので化学工場での量産が可能となり、承認されれば一気にそれが広まることが予想される。食品はまだ、「消化」という関門を通らなければならず、一度はバラバラに分解もされる。けれど、ワクチンは、直接生体に注入するものだ。通常なら、例えばアメリカで新しいワクチンが承認されたとしても、人種が違う場合その有効性や安全性が確かではないため、日本でもその確認のために治験の期間を置く。けれど、今回の場合、例外的にその期間を省く(または極端に短くする)ことになる可能性が高いと感じている。それも、人工的に遺伝子を操作したワクチンという前例がないものを、だ。その時、果たしてそれを「使わない」という選択肢は自由に保障されているのだろうか。「新型コロナの蔓延を防ぐため」という大義の元、公的資金を拠出し、ただなのだから(あるいは格安なのだから)打ってくださいと、ほとんど義務のように言われだすのではないだろうか。新たなワクチンを「使わない」者は感染拡大防止に非協力な者だ、という同調圧力がかからないわけがないとは、今までの騒ぎを見ていれば誰でも思うところだ。この「新型」ワクチン、調べてわかったのは、安全性に疑問を投げかける専門家が相応にいる、ということだ。報道からはワクチンの開発ばかりに光が当たり、できれば安心という論調しか聞こえてこないのはなぜだろう。そのワクチンが危険である可能性に目を光らせるのも報道の責務だと思うのだが、僕が知る限りそれを積極的に伝える報道には出会っていない。新型コロナ、これを怖いものだとばかり意識づけられると、きっと多くの人が「藁をもすがる」気分になるのだろう。経済をとにかくすぐに立ち直らせるためには、即効性があるものをすぐに手に入れる必要があると大多数が思わされるのだろう。そう思う人が多ければ多いほど、ワクチンには光しか当たらなくなり、しかもそこには莫大な富も生まれる。大国と呼ばれる国々がワクチンの開発に激しい競争を繰り広げるのは、必ずしも新型コロナへの対策、人類の貢献のためばかりではない。「新型」コロナウィルスは、確かに人類にとっては「未知」だったのかもしれない。けれど、自然界に存在していたものなのだ。「新型」ワクチンは、人が研究室で生み出したものだ。それが生体にどのような影響を及ぼすのか、それこそすべての生物にとって「未知」のものだ。影響の実証には数世代かかるのだろうが、気づいたときに人は、もう生物として後戻りできないものとなっている可能性すらある。自分を通じて、我が子が、我が孫が、脈々とその人工的に作られた遺伝子を受け継いでいくことになるのかもしれない。パートナーである相手にもその遺伝子があれば、さらに予測が立たない変異を招くかもしれない。自分の頭で考えろ!新型コロナウィルスは、そう警告しているのかもしれない。ひょっとすると、人が人為的に生む究極の「災害」、今がその時である可能性がある。 11月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3219522 アメリカの大統領選挙は「一応」のカタがつき、民主党のジョー・バイデン氏が勝った。今の子どもに、日本の首相とアメリカの大統領の名前を聞いたら、アメリカの大統領の方が正解が多いのではないかと思われるくらい、日本では報道が連日盛んだった。その報道には、どちらが大統領になったら日本が安泰かを議論する内容も多くあった。その点については僕にはよくわからないことが多すぎたが、ひとつだけ、確かな違いがあることだけは分かった。それは、アメリカの「パリ協定」離脱からの復帰だ。パリ協定は、地球温暖化を人為的なものとして、世界が協力してその原因となっている温室効果ガスの排出量を抑えようという、達成年を区切り数値目標を掲げて約束しあったものだ。トランプ氏はその約束はしないと宣言し、つい先日11月4日にそれは現実のものとなった。アメリカのみならず、オーストラリアや世界の各所で未曽有の山火事が発生し、記録的なハリケーンが何度も国土を流しても、トランプ氏は、自身がコロナに罹ってもマスクはしないその態度同様にパリ協定を軽視し続けた結果だった。世界最大の温室効果ガスの排出国である中国に続く、第二位の排出国であるアメリカ。当然だが、この国がパリ協定を離脱する影響は計り知れない。直接的な影響は、温室効果ガスの削減自体にブレーキがかかること。間接的だがボディブローのように効いてくる影響は、国際社会のリーダーシップを中国が握る可能性が高いことだ。かつてアメリカがそうだったように、今は中国が突出した温室効果ガスを出しつつ経済成長を遂げている。皮肉なことに、経済的な豊かさと温室効果ガスの排出量はほぼ比例しているのだ。単純化すると、エネルギーは、消費すればしただけ経済が活発に動く。トランプ氏が、アメリカの再生を叫びパリ協定から離脱したのもそれが理由だ。しかし、当然だが、それで今後のアメリカの輝かしい経済が保証されることは、もはやない。新型コロナに代表される未知のウィルスの登場もそうだが、先述した未曽有の山火事、ハリケーン、そして砂漠の拡大や永久凍土の融解、世界の屋根と言われる峰々や極点の氷河・氷床の溶解と流出等々…それこそ、こうした自然災害による被害額はそれとは比較にならないほど膨大だ。もっと急務と思われることは、このままの勢いで温暖化が進めば、まず植物の移動が間に合わないと言われていることだ。地球的時間では、氷河期と間氷期は交互にやってきており、それこそ地球すべてが凍てつきアイスボールとなった時代まである(現在は氷河が残っているのでまだ氷河期にある)。それは数千年から数万年をかけてじわじわと訪れ、その時間の中で気候の変動に合わせた生物の進化や植生の移動が行われた。けれど、今の温暖化はこの変化をはるかにしのぐスピードで起きている。植生の変化が間に合わなければ、植物は壊滅的な打撃を受ける。ありとあらゆる動物の生命源となってきた植物が壊滅的となることが何を意味するか、少し考えればわかることだ(肉食獣も草食獣を食べる、その草食獣がいなくなる!)。おそらくその前から農地に適した場所の争奪が起り、食料そのものの奪取をめぐっての紛争が起きるだろう。それだけではない。植生に打撃を与えるくらいになれば、峰々や極点の氷河・氷床は溶け、海面が上昇する。雪解け水の枯渇は、山岳に住む人たちも直撃するだろう。世界の多くの主要都市は海岸線につくられており、海面上昇に対してはおそらくなすすべがない。東京では、臨海部やゼロメートル地帯に人は住めなくなり、地下鉄がほぼ水没し、都市機能は完全に断たれてしまうかもしれない。そして、氷が溶けだすということは、氷に閉じ込められていた温室効果ガスが放出されることを意味している。それが臨界点を超えれば、もはや後戻りができない負のスパイラルが加速度的に繰り返される。そして、きっとそんなことは、そう遠くない未来に起こりうる。持続可能な開発と社会―国連はそれを目指し、SDGs(エスディジーズ)基準を定めた。これからは、個人のエゴとの戦いとなる。もちろん、僕も含め、ひとりひとりがその当事者だ。今後は、自然災害はもはやそのまま自然とは呼べない背景も増えるのだろう。人の知恵と理性がそれを阻止するか、それともエゴに負けてしまうのか。地球が壊れていくのではない。地球は、いつだってあるようにしかない。人をはじめとする、生物が壊れていくのだ。バイデン氏は、大統領就任初日にパリ協定への復帰を公約していた。しかし、バイデン氏とトランプ氏が本当に僅差だったことが、現実の難しさを物語っている。子どもに、安心を残せるのか。自分自身に問いかける日が続く。 2020-11-12T08:08:00+09:00 アメリカの大統領選挙は「一応」のカタがつき、民主党のジョー・バイデン氏が勝った。今の子どもに、日本の首相とアメリカの大統領の名前を聞いたら、アメリカの大統領の方が正解が多いのではないかと思われるくらい、日本では報道が連日盛んだった。その報道には、どちらが大統領になったら日本が安泰かを議論する内容も多くあった。その点については僕にはよくわからないことが多すぎたが、ひとつだけ、確かな違いがあることだけは分かった。それは、アメリカの「パリ協定」離脱からの復帰だ。パリ協定は、地球温暖化を人為的なものとして、世界が協力してその原因となっている温室効果ガスの排出量を抑えようという、達成年を区切り数値目標を掲げて約束しあったものだ。トランプ氏はその約束はしないと宣言し、つい先日11月4日にそれは現実のものとなった。アメリカのみならず、オーストラリアや世界の各所で未曽有の山火事が発生し、記録的なハリケーンが何度も国土を流しても、トランプ氏は、自身がコロナに罹ってもマスクはしないその態度同様にパリ協定を軽視し続けた結果だった。世界最大の温室効果ガスの排出国である中国に続く、第二位の排出国であるアメリカ。当然だが、この国がパリ協定を離脱する影響は計り知れない。直接的な影響は、温室効果ガスの削減自体にブレーキがかかること。間接的だがボディブローのように効いてくる影響は、国際社会のリーダーシップを中国が握る可能性が高いことだ。かつてアメリカがそうだったように、今は中国が突出した温室効果ガスを出しつつ経済成長を遂げている。皮肉なことに、経済的な豊かさと温室効果ガスの排出量はほぼ比例しているのだ。単純化すると、エネルギーは、消費すればしただけ経済が活発に動く。トランプ氏が、アメリカの再生を叫びパリ協定から離脱したのもそれが理由だ。しかし、当然だが、それで今後のアメリカの輝かしい経済が保証されることは、もはやない。新型コロナに代表される未知のウィルスの登場もそうだが、先述した未曽有の山火事、ハリケーン、そして砂漠の拡大や永久凍土の融解、世界の屋根と言われる峰々や極点の氷河・氷床の溶解と流出等々…それこそ、こうした自然災害による被害額はそれとは比較にならないほど膨大だ。もっと急務と思われることは、このままの勢いで温暖化が進めば、まず植物の移動が間に合わないと言われていることだ。地球的時間では、氷河期と間氷期は交互にやってきており、それこそ地球すべてが凍てつきアイスボールとなった時代まである(現在は氷河が残っているのでまだ氷河期にある)。それは数千年から数万年をかけてじわじわと訪れ、その時間の中で気候の変動に合わせた生物の進化や植生の移動が行われた。けれど、今の温暖化はこの変化をはるかにしのぐスピードで起きている。植生の変化が間に合わなければ、植物は壊滅的な打撃を受ける。ありとあらゆる動物の生命源となってきた植物が壊滅的となることが何を意味するか、少し考えればわかることだ(肉食獣も草食獣を食べる、その草食獣がいなくなる!)。おそらくその前から農地に適した場所の争奪が起り、食料そのものの奪取をめぐっての紛争が起きるだろう。それだけではない。植生に打撃を与えるくらいになれば、峰々や極点の氷河・氷床は溶け、海面が上昇する。雪解け水の枯渇は、山岳に住む人たちも直撃するだろう。世界の多くの主要都市は海岸線につくられており、海面上昇に対してはおそらくなすすべがない。東京では、臨海部やゼロメートル地帯に人は住めなくなり、地下鉄がほぼ水没し、都市機能は完全に断たれてしまうかもしれない。そして、氷が溶けだすということは、氷に閉じ込められていた温室効果ガスが放出されることを意味している。それが臨界点を超えれば、もはや後戻りができない負のスパイラルが加速度的に繰り返される。そして、きっとそんなことは、そう遠くない未来に起こりうる。持続可能な開発と社会―国連はそれを目指し、SDGs(エスディジーズ)基準を定めた。これからは、個人のエゴとの戦いとなる。もちろん、僕も含め、ひとりひとりがその当事者だ。今後は、自然災害はもはやそのまま自然とは呼べない背景も増えるのだろう。人の知恵と理性がそれを阻止するか、それともエゴに負けてしまうのか。地球が壊れていくのではない。地球は、いつだってあるようにしかない。人をはじめとする、生物が壊れていくのだ。バイデン氏は、大統領就任初日にパリ協定への復帰を公約していた。しかし、バイデン氏とトランプ氏が本当に僅差だったことが、現実の難しさを物語っている。子どもに、安心を残せるのか。自分自身に問いかける日が続く。 10月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3185956 今日11日、今も続く羽根木プレーパークでの「歌おう、ふるさと」。毎回そこにいる人に声掛けをすることもあるが、いまだにそれを目指してきてくださる方々もおり、今日も20人近い参加があった。これは先月のことだが、歌い終わったとき、一人の男性の口から言葉が漏れた。「10年まで、もう5回だなぁ。あと5回しかないよ」それを聞き、思わず指を折って数えていた。そしてまた一か月が過ぎ、あと4回となってしまった。東日本大震災から10年というが、その間、実にさまざまな自然災害に見舞われた。改めてそれらをネットで調べてみた。2011年3月東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)長野県北部地震(主に栄村)4月福品県浜通り地震(主にいわき市)9月台風12号(主に紀伊半島)2012年5月関東竜巻災害(茨城県)2013年8月猛暑2013年10月台風26号(伊豆大島)2014年2月豪雪(主に中部地方)8月集中豪雨による土砂災害(主に広島市)9月御嶽山噴火2016年4月熊本地震(主に益城町、西原村)4月大分県中部地震(主に由布市、別府市)8月台風7、9、10、11号と前線による豪雨(主に北海道)2017年7月九州北部豪雨(主に福岡県、大分県)2018年6月大阪北部地震7月西日本豪雨(主に広島県、岡山県、愛媛県)8月猛暑9月北海道胆振東部地震(主に厚真町)2019年9月台風15号(主に房総半島)10月台風19号(主に関東地方、東北地方)2020年7月豪雨(主に熊本県、岐阜県、長野県)改めて見ると、記憶しているものも多くあるが、具体的に思い出せない災害もあることに気づく。僕が思い出せなくても、当然そこに被災者は確かにまだいて、その後の人生を送っているはずだ。「私たちをもう被災者と呼ぶな」という声を、被災者から聴いたことがある。いつまでもそんなところ(被災した時点)にいるわけにはいかない、もう前進しているのだ、という意味だと受け止めたが、そうはいっても、やはり被災の傷が癒えないままの人がいることも事実だ。そしてそれは、多くの場合、その後のケアの問題が深く関係しているとやはり思う。グラデーション的で確実な線引きができないことが問題を見えにくくしているが、自然災害から放置、あるいは忘却という人災に移行していく、その被災者ならば、それははっきりと「被災者」と呼ばなくてはならない。僕も含め、自然災害はだれにも等しくやってくる。 2020-10-13T07:46:00+09:00 今日11日、今も続く羽根木プレーパークでの「歌おう、ふるさと」。毎回そこにいる人に声掛けをすることもあるが、いまだにそれを目指してきてくださる方々もおり、今日も20人近い参加があった。これは先月のことだが、歌い終わったとき、一人の男性の口から言葉が漏れた。「10年まで、もう5回だなぁ。あと5回しかないよ」それを聞き、思わず指を折って数えていた。そしてまた一か月が過ぎ、あと4回となってしまった。東日本大震災から10年というが、その間、実にさまざまな自然災害に見舞われた。改めてそれらをネットで調べてみた。2011年3月東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)長野県北部地震(主に栄村)4月福品県浜通り地震(主にいわき市)9月台風12号(主に紀伊半島)2012年5月関東竜巻災害(茨城県)2013年8月猛暑2013年10月台風26号(伊豆大島)2014年2月豪雪(主に中部地方)8月集中豪雨による土砂災害(主に広島市)9月御嶽山噴火2016年4月熊本地震(主に益城町、西原村)4月大分県中部地震(主に由布市、別府市)8月台風7、9、10、11号と前線による豪雨(主に北海道)2017年7月九州北部豪雨(主に福岡県、大分県)2018年6月大阪北部地震7月西日本豪雨(主に広島県、岡山県、愛媛県)8月猛暑9月北海道胆振東部地震(主に厚真町)2019年9月台風15号(主に房総半島)10月台風19号(主に関東地方、東北地方)2020年7月豪雨(主に熊本県、岐阜県、長野県)改めて見ると、記憶しているものも多くあるが、具体的に思い出せない災害もあることに気づく。僕が思い出せなくても、当然そこに被災者は確かにまだいて、その後の人生を送っているはずだ。「私たちをもう被災者と呼ぶな」という声を、被災者から聴いたことがある。いつまでもそんなところ(被災した時点)にいるわけにはいかない、もう前進しているのだ、という意味だと受け止めたが、そうはいっても、やはり被災の傷が癒えないままの人がいることも事実だ。そしてそれは、多くの場合、その後のケアの問題が深く関係しているとやはり思う。グラデーション的で確実な線引きができないことが問題を見えにくくしているが、自然災害から放置、あるいは忘却という人災に移行していく、その被災者ならば、それははっきりと「被災者」と呼ばなくてはならない。僕も含め、自然災害はだれにも等しくやってくる。 9月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3154169 先週末の台風10号。「かつて経験したことがない」強さだと、気象庁が数日前から異例の警告を出し続けた。結果的には、進路が九州沖合に少しそれたこともあり、事前の最大級の警戒警報ほどの被害は免れたように思う。それでも土砂崩れでいまだに行方不明の人がいるし、何より海水面の温度が下がっていない。まだまだ台風シーズンのただなかにいることを思えば、決して油断ができる状況ではない。けれど、目を転じて朝鮮半島はいったいどうだったのだろう。偏西風に乗らず北上を続けたので、九州からそれたぶん、朝鮮半島には直撃だった。韓国、北朝鮮にも被害は及んだのではないかと、ちょっと前に調べてみた。10号の直前の9号が同じく北上していた。日本には直接被害を与えなかったのでついスルーしていたが、ここですでに大きな被害が出ていた。台風のダブルパンチを受けていたことに、初めて気づいた。10号は、九州の対岸に位置するプサン付近に上陸し、プサンの町は川の氾濫とともに水浸しになったとニュースが伝えていた。人命も、数人失ったとのことだった。ここには被害状況を書ききれないが、韓国に関してはそれなりに調べれば被害が分かった。だがしかし、北朝鮮に関してはよく分からなかった。けれど、今日になって、ネットニュースが北朝鮮の惨状を伝えていた。道路や橋、鉄道や送電線が寸断され、交通網が完全にマヒしているという。水害や土砂崩れが都市部も含め農業地帯に起きているとのことで、そのニュースは、今年の収穫期に起きたこの被害に大きな危機を伝えていた。国外に被害を伝えられる国は、まだ国外からの支援を受ける道が開けている。けれど、北朝鮮は、いいことが起きると派手に伝えるが、マイナスなことはあまり出さない国だ。これは中国も同じだが、中国とは国の体力が違う。国際社会に向かって助けを求めることを表立ってしないこの国は、かつて国民の多くを餓死させたと伝えられている。その数、数百万人とも。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がその惨状を伝え、国交がない先進諸国にも緊急の人道支援を訴えたことは記憶している人もいるかと思う。けれど、その人道支援さえも飢餓状態にある国民に届くことはなく、国家首脳及び兵隊はじめその体制を守るための人々にほぼ独占的に配られていると思われる様子から、手を引かれてしまった。こうしたことを見ると、自然災害そのものは簡単には避けられないとしても、その被害にあった国の国民がどういった体制の国に住んでいるかがその後の暮らしの天地を分けることに気づく。もちろん、日本で被災した場合、国民に日本は手厚いと言いたいわけではない。例えば「激甚災害」に指定しなければ国は手を差し伸べない、その家に住み続けることができない点では同じでも「半壊」「全壊」による補償の額が全く違う、等々。今回のコロナにしても、休業要請と補償が一緒に考えられていない等、被災した人たちに対する国の責任の負い方や考え、制度など、考えなければならない点はたくさんある。そして、これは政治が、つまり人の意思が決めている。どのような意思を、その国は持ちたい、あるいは持とうと考えているのか。今日は、9月11日。19年前の2001年、希望に満ちていると誰もが期待した新世紀を、絶望的な事件が切り裂いた。アメリカ、ツインタワーのそれぞれに2機の旅客機が突っ込み、その衝撃により瓦解した。第3次世界大戦に発展する危険すら覚えさせたこの事件は、自然災害ではもちろんない。亡くなった数えきれない命、それを指揮したのは紛れもなく人の意思だ。そして、それに続く湾岸戦争、イスラム国の席巻、ナショナリズムの台頭…、すべてが人の意思が生み出した悲劇であり、それは再生産されていく。今やナショナリズムはコロナウィルスのように伝染し、世界に蔓延しつつあるように見える。自国の利益しか見ないこの姿勢はエネルギーを独り占めし、地球を、人が住める状況には後戻りできない環境に変えていく。そして、未知のウィルスが出現し、かつて例がない規模の低気圧(台風やハリケーン等)を生み、極点の氷を溶かし、海水面を押し上げる。自然災害すら、人が生み出す時代に入っている。おりしも日本は今、ポスト阿部の、これからのこの国を背負う総裁選の真っただ中にある。彼らは、この国の、世界の未来を、どう描こうとしているのだろうか。それを思い描く政治家であることを、未来を生きる子どもに思いをはせながら、強く願う。 2020-09-15T06:11:00+09:00 先週末の台風10号。「かつて経験したことがない」強さだと、気象庁が数日前から異例の警告を出し続けた。結果的には、進路が九州沖合に少しそれたこともあり、事前の最大級の警戒警報ほどの被害は免れたように思う。それでも土砂崩れでいまだに行方不明の人がいるし、何より海水面の温度が下がっていない。まだまだ台風シーズンのただなかにいることを思えば、決して油断ができる状況ではない。けれど、目を転じて朝鮮半島はいったいどうだったのだろう。偏西風に乗らず北上を続けたので、九州からそれたぶん、朝鮮半島には直撃だった。韓国、北朝鮮にも被害は及んだのではないかと、ちょっと前に調べてみた。10号の直前の9号が同じく北上していた。日本には直接被害を与えなかったのでついスルーしていたが、ここですでに大きな被害が出ていた。台風のダブルパンチを受けていたことに、初めて気づいた。10号は、九州の対岸に位置するプサン付近に上陸し、プサンの町は川の氾濫とともに水浸しになったとニュースが伝えていた。人命も、数人失ったとのことだった。ここには被害状況を書ききれないが、韓国に関してはそれなりに調べれば被害が分かった。だがしかし、北朝鮮に関してはよく分からなかった。けれど、今日になって、ネットニュースが北朝鮮の惨状を伝えていた。道路や橋、鉄道や送電線が寸断され、交通網が完全にマヒしているという。水害や土砂崩れが都市部も含め農業地帯に起きているとのことで、そのニュースは、今年の収穫期に起きたこの被害に大きな危機を伝えていた。国外に被害を伝えられる国は、まだ国外からの支援を受ける道が開けている。けれど、北朝鮮は、いいことが起きると派手に伝えるが、マイナスなことはあまり出さない国だ。これは中国も同じだが、中国とは国の体力が違う。国際社会に向かって助けを求めることを表立ってしないこの国は、かつて国民の多くを餓死させたと伝えられている。その数、数百万人とも。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がその惨状を伝え、国交がない先進諸国にも緊急の人道支援を訴えたことは記憶している人もいるかと思う。けれど、その人道支援さえも飢餓状態にある国民に届くことはなく、国家首脳及び兵隊はじめその体制を守るための人々にほぼ独占的に配られていると思われる様子から、手を引かれてしまった。こうしたことを見ると、自然災害そのものは簡単には避けられないとしても、その被害にあった国の国民がどういった体制の国に住んでいるかがその後の暮らしの天地を分けることに気づく。もちろん、日本で被災した場合、国民に日本は手厚いと言いたいわけではない。例えば「激甚災害」に指定しなければ国は手を差し伸べない、その家に住み続けることができない点では同じでも「半壊」「全壊」による補償の額が全く違う、等々。今回のコロナにしても、休業要請と補償が一緒に考えられていない等、被災した人たちに対する国の責任の負い方や考え、制度など、考えなければならない点はたくさんある。そして、これは政治が、つまり人の意思が決めている。どのような意思を、その国は持ちたい、あるいは持とうと考えているのか。今日は、9月11日。19年前の2001年、希望に満ちていると誰もが期待した新世紀を、絶望的な事件が切り裂いた。アメリカ、ツインタワーのそれぞれに2機の旅客機が突っ込み、その衝撃により瓦解した。第3次世界大戦に発展する危険すら覚えさせたこの事件は、自然災害ではもちろんない。亡くなった数えきれない命、それを指揮したのは紛れもなく人の意思だ。そして、それに続く湾岸戦争、イスラム国の席巻、ナショナリズムの台頭…、すべてが人の意思が生み出した悲劇であり、それは再生産されていく。今やナショナリズムはコロナウィルスのように伝染し、世界に蔓延しつつあるように見える。自国の利益しか見ないこの姿勢はエネルギーを独り占めし、地球を、人が住める状況には後戻りできない環境に変えていく。そして、未知のウィルスが出現し、かつて例がない規模の低気圧(台風やハリケーン等)を生み、極点の氷を溶かし、海水面を押し上げる。自然災害すら、人が生み出す時代に入っている。おりしも日本は今、ポスト阿部の、これからのこの国を背負う総裁選の真っただ中にある。彼らは、この国の、世界の未来を、どう描こうとしているのだろうか。それを思い描く政治家であることを、未来を生きる子どもに思いをはせながら、強く願う。 8月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3154175 山形の、僕の友人が何気ない会話の中でこう話した。「その地区で最初にコロナに罹った人が、引っ越しを余儀なくされちゃったんだよね。村八分とかそんなレベルじゃなく、仕事も当然できないし、結局住み続けることもできなくなって」一瞬絶句した。「それ、とんでもない話じゃない!本当のこと?」「ほかにも聞くよ。」お盆の今月、東京に住む身内に「帰ってくるな」という地方からの話は報道でよく聞く。まさか、コロナに感染しただけでそこに住めなくなるなどということがあるなんて!こんな状況を、ぼくは新型コロナの感染よりはるかに怖いと感じる。差別や選別、それがまかり通ってしまう常識が、人の心を闇に引き込んでいく。いや、差別や選別は、そもそも人の心の中にある。それを認め、それとしっかり向き合っていないと、人はいとも簡単にその闇に引きずり込まれるのかもしれない。医療従事者に感謝を!と言いつつ、その家族が学校や職場であからさまに遠ざけられる。福島で原発事件(あれは事故ではない)に合い、子どもの健康被害を案じる親が引っ越したその先で、学校で「放射能がうつる」と言われいじめられる。まるで「菌」や「ウィルス」の扱いだ。なぜこんなことが起きるのだろう。おそらく、その根底にあるもののひとつは、「恐怖」とそれからくる「不安」だ。しかし「恐怖」と「不安」は、全く別物だ。「恐怖」には、それを引き起こす実態がある。「不安」には、その実態がない。つまり上記の話で言えば、コロナウィルスや放射線はその実態、つまり恐怖の対象。けれど、それが「うつるかもしれない」というのは、これは不安だ。不安を少しでも軽くしたいのなら、恐怖の対象をしっかり知ることだ。それさえ正しく理解すれば、不安のもとは確実に軽くすることができる。人は、知ることができる。そして、考えることができる。報道や人が何を言っても、大事なことが何なのかを、人は自らの頭で考えることができる。その上でわからないことがあれば、人は調べることができる。よくわからないで、判断に迷うことはあるだろう。けれど、だからと言って簡単な答えにすがることが何を意味するのか。それを狙っているのが、心にぽっかり穴をあけた深い闇なのだと、僕は思う。さぁ、飛び込んでおいで、楽に答えが得られるよ!と。お盆だ。戦禍に命を落とした人も大勢いる。さぁ、遠慮なく故郷に帰っておいで! 2020-09-15T06:10:00+09:00 山形の、僕の友人が何気ない会話の中でこう話した。「その地区で最初にコロナに罹った人が、引っ越しを余儀なくされちゃったんだよね。村八分とかそんなレベルじゃなく、仕事も当然できないし、結局住み続けることもできなくなって」一瞬絶句した。「それ、とんでもない話じゃない!本当のこと?」「ほかにも聞くよ。」お盆の今月、東京に住む身内に「帰ってくるな」という地方からの話は報道でよく聞く。まさか、コロナに感染しただけでそこに住めなくなるなどということがあるなんて!こんな状況を、ぼくは新型コロナの感染よりはるかに怖いと感じる。差別や選別、それがまかり通ってしまう常識が、人の心を闇に引き込んでいく。いや、差別や選別は、そもそも人の心の中にある。それを認め、それとしっかり向き合っていないと、人はいとも簡単にその闇に引きずり込まれるのかもしれない。医療従事者に感謝を!と言いつつ、その家族が学校や職場であからさまに遠ざけられる。福島で原発事件(あれは事故ではない)に合い、子どもの健康被害を案じる親が引っ越したその先で、学校で「放射能がうつる」と言われいじめられる。まるで「菌」や「ウィルス」の扱いだ。なぜこんなことが起きるのだろう。おそらく、その根底にあるもののひとつは、「恐怖」とそれからくる「不安」だ。しかし「恐怖」と「不安」は、全く別物だ。「恐怖」には、それを引き起こす実態がある。「不安」には、その実態がない。つまり上記の話で言えば、コロナウィルスや放射線はその実態、つまり恐怖の対象。けれど、それが「うつるかもしれない」というのは、これは不安だ。不安を少しでも軽くしたいのなら、恐怖の対象をしっかり知ることだ。それさえ正しく理解すれば、不安のもとは確実に軽くすることができる。人は、知ることができる。そして、考えることができる。報道や人が何を言っても、大事なことが何なのかを、人は自らの頭で考えることができる。その上でわからないことがあれば、人は調べることができる。よくわからないで、判断に迷うことはあるだろう。けれど、だからと言って簡単な答えにすがることが何を意味するのか。それを狙っているのが、心にぽっかり穴をあけた深い闇なのだと、僕は思う。さぁ、飛び込んでおいで、楽に答えが得られるよ!と。お盆だ。戦禍に命を落とした人も大勢いる。さぁ、遠慮なく故郷に帰っておいで! 7月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3089610 東日本大震災から9年4か月。その頃に、一体誰が予想しただろうか。毎年のように起きる、数十年あるいは100年に一度ともいわれるほどの豪雨と大水害。今年のまさに今も、九州をはじめ、各地で河川の氾濫、決壊が起き、被害が拡大している。そして未知のウィルスである新型コロナによる感染症の世界的大流行。被災地を襲う感染の危険性で、避難所自体、従来通りというわけにはいかなくなっている。何が起きても、異常ではなくなっていくこの現実。異常が常識になりそうな、この危険な感覚。コロナに関しては、社会的には振り回されすぎだという印象がぼくには強い。ことに、子どもに関してはその「育ち」の観点から語られることはほとんどない。昨年末に中国で発見されたこのウィルスは、新型でほとんど得体が知れなかった。けれど、徐々にだがその性質がわかり始めている。・子どもの感染は大人から子どもが多くを占め、子ども同士の感染は少数例。・子どもから大人に感染したという報告も、少数例にとどまっている。・子どもが感染しても、そのほとんどが軽症もしくは無症状で重症者はまれ。こうした状況があるにもかかわらず、子どもにも大人と同じ規制を守らせようとしている。具体的には「三密(密閉、密集、密接)」を避けることだ。子どもは、感覚神経をフルに使って下界を感知し、自分の中に取り込み、そして心を育てる。そして、その繰り返しの中で感覚神経も発達させていく。特に「肌感覚」は子どものもう一つの脳ともいわれるくらい、例えば愛着関係を築くのも、コミュニケーション力を養うのにも、決して欠かすことができない経験となる。そんな発達途上の子どもにとって「密」は不可欠な要素だ、ということに、社会はあまりに無頓着だ。それを子どもから奪うのなら、それ相応の理由が必要となる。例えば、感染した時の重症化の頻度の高さ、さらに言えば死亡率が高い、そのうえ子ども同士の感染が容易に起きている、などだ。しかし、既述の通り、子どもの感染には、このウィルスは優しいようだ。特効薬ができるまで、ワクチンができるまで、それまでの我慢だという人もいる。けれど、子どもの育ちは驚くほど速い。おそらく幼児くらいの年齢ならば、1週間の自粛は、大人の1年以上に匹敵するのではないか。しかも、特効薬もワクチンも、待てば必ずできる保証はない。RNAウィルスである新型コロナは、その性質上、変異が早い。インフルエンザウィルスも同じRNAウィルスで、やはり変異が早いため、すべての型に決定的な特効薬やワクチンは、いまだにない。インフルエンザ同様、おそらく決定的な特効薬やワクチンはできないのではないだろうか。それを「できるまでの辛抱」と言っていたら、一体何世代の子どもが育ちの機会を奪われることになってしまうのか。新型コロナにかかわらず、「温暖化」と「際限ない開発」がこのまま進めば、未知のウィルスはいくらでも出現すると予言する専門家がいる。ぼく自身も、そう思うひとりだ。子どもの育ちを守り、こうした事態を生き抜いていくためにはどうしたらいいのか。僕自身は、自分の免疫系を高めていくことに尽きると考えている。免疫には「自然免疫」と「獲得免疫」がある。前者は親から引き継いだもので、おおざっぱに敵を認識し撃退させる門番のような役割を持つ。後者はこの世に生まれて以降、その環境から様々な菌やウィルスを取り込み、より専門的に侵入者に攻撃を仕掛ける力を持った免疫だ。今の日本は、この獲得免疫が強化されにくい環境に置かれているといえる。人工的に、きれいにしすぎているからだ。土のある場所で寝転がり走り回り、草や虫と戯れる。外で手作りのお弁当をみんなで分け合いながらほおばる。これだけで獲得免疫は格段に強化される。子どもの育ちには外遊びが欠かせない理由の、これは大きなひとつだ。そうした免疫の強化を日ごろからしている(つまり泥にまみれて遊んでいる)保育園からは、次の報告がいくつも届いてきた。「周りの保育園がインフルエンザで閉鎖されても自分の園では患者が出ない」そう、これがまず根本の対策であることを知る必要がある。そして、そういう子どもは、もちろん罹患しても症状は抑えられる。菌やウィルスによる感染症は、そもそも致し方ないものだ。人類だけでなく、生き物が命を授けられた時から感染源とのせめぎあいは始まっているともいえる。けれど、だから生物は進化もしてきた。人間はもちろん、生物の遺伝子には、菌やウィルス由来のものが数多く見出されている。哺乳類の胎盤の遺伝子もウィルス由来であるという事実は、中でも特筆すべき発見だ。ウィルスに感染したから、哺乳類は生まれた―そう考えられているのだ。そうであれば、感染自体がいけないというより、重症化しないための方策こそ大事なのだといえる。それに、もともとの免疫機構さえしっかりしていれば、コロナに罹ることで獲得免疫はまた力を増す。そして、子ども時代は、それを身につけて行くただなかの時代といえる。感染を忌避するがゆえに、大人と同様の措置を取り様々な感染症に対して弱っちい体にしてしまうのではなく、免疫の発達をしっかりと保障してコロナに耐えうる体をつくる。何が本質的に大事かは、生命の進化の歴史がはっきり語っている、そう僕は思っている。豪雨被害がこれ以上広がらないよう、心から念じています。 2020-07-18T06:32:00+09:00 東日本大震災から9年4か月。その頃に、一体誰が予想しただろうか。毎年のように起きる、数十年あるいは100年に一度ともいわれるほどの豪雨と大水害。今年のまさに今も、九州をはじめ、各地で河川の氾濫、決壊が起き、被害が拡大している。そして未知のウィルスである新型コロナによる感染症の世界的大流行。被災地を襲う感染の危険性で、避難所自体、従来通りというわけにはいかなくなっている。何が起きても、異常ではなくなっていくこの現実。異常が常識になりそうな、この危険な感覚。コロナに関しては、社会的には振り回されすぎだという印象がぼくには強い。ことに、子どもに関してはその「育ち」の観点から語られることはほとんどない。昨年末に中国で発見されたこのウィルスは、新型でほとんど得体が知れなかった。けれど、徐々にだがその性質がわかり始めている。・子どもの感染は大人から子どもが多くを占め、子ども同士の感染は少数例。・子どもから大人に感染したという報告も、少数例にとどまっている。・子どもが感染しても、そのほとんどが軽症もしくは無症状で重症者はまれ。こうした状況があるにもかかわらず、子どもにも大人と同じ規制を守らせようとしている。具体的には「三密(密閉、密集、密接)」を避けることだ。子どもは、感覚神経をフルに使って下界を感知し、自分の中に取り込み、そして心を育てる。そして、その繰り返しの中で感覚神経も発達させていく。特に「肌感覚」は子どものもう一つの脳ともいわれるくらい、例えば愛着関係を築くのも、コミュニケーション力を養うのにも、決して欠かすことができない経験となる。そんな発達途上の子どもにとって「密」は不可欠な要素だ、ということに、社会はあまりに無頓着だ。それを子どもから奪うのなら、それ相応の理由が必要となる。例えば、感染した時の重症化の頻度の高さ、さらに言えば死亡率が高い、そのうえ子ども同士の感染が容易に起きている、などだ。しかし、既述の通り、子どもの感染には、このウィルスは優しいようだ。特効薬ができるまで、ワクチンができるまで、それまでの我慢だという人もいる。けれど、子どもの育ちは驚くほど速い。おそらく幼児くらいの年齢ならば、1週間の自粛は、大人の1年以上に匹敵するのではないか。しかも、特効薬もワクチンも、待てば必ずできる保証はない。RNAウィルスである新型コロナは、その性質上、変異が早い。インフルエンザウィルスも同じRNAウィルスで、やはり変異が早いため、すべての型に決定的な特効薬やワクチンは、いまだにない。インフルエンザ同様、おそらく決定的な特効薬やワクチンはできないのではないだろうか。それを「できるまでの辛抱」と言っていたら、一体何世代の子どもが育ちの機会を奪われることになってしまうのか。新型コロナにかかわらず、「温暖化」と「際限ない開発」がこのまま進めば、未知のウィルスはいくらでも出現すると予言する専門家がいる。ぼく自身も、そう思うひとりだ。子どもの育ちを守り、こうした事態を生き抜いていくためにはどうしたらいいのか。僕自身は、自分の免疫系を高めていくことに尽きると考えている。免疫には「自然免疫」と「獲得免疫」がある。前者は親から引き継いだもので、おおざっぱに敵を認識し撃退させる門番のような役割を持つ。後者はこの世に生まれて以降、その環境から様々な菌やウィルスを取り込み、より専門的に侵入者に攻撃を仕掛ける力を持った免疫だ。今の日本は、この獲得免疫が強化されにくい環境に置かれているといえる。人工的に、きれいにしすぎているからだ。土のある場所で寝転がり走り回り、草や虫と戯れる。外で手作りのお弁当をみんなで分け合いながらほおばる。これだけで獲得免疫は格段に強化される。子どもの育ちには外遊びが欠かせない理由の、これは大きなひとつだ。そうした免疫の強化を日ごろからしている(つまり泥にまみれて遊んでいる)保育園からは、次の報告がいくつも届いてきた。「周りの保育園がインフルエンザで閉鎖されても自分の園では患者が出ない」そう、これがまず根本の対策であることを知る必要がある。そして、そういう子どもは、もちろん罹患しても症状は抑えられる。菌やウィルスによる感染症は、そもそも致し方ないものだ。人類だけでなく、生き物が命を授けられた時から感染源とのせめぎあいは始まっているともいえる。けれど、だから生物は進化もしてきた。人間はもちろん、生物の遺伝子には、菌やウィルス由来のものが数多く見出されている。哺乳類の胎盤の遺伝子もウィルス由来であるという事実は、中でも特筆すべき発見だ。ウィルスに感染したから、哺乳類は生まれた―そう考えられているのだ。そうであれば、感染自体がいけないというより、重症化しないための方策こそ大事なのだといえる。それに、もともとの免疫機構さえしっかりしていれば、コロナに罹ることで獲得免疫はまた力を増す。そして、子ども時代は、それを身につけて行くただなかの時代といえる。感染を忌避するがゆえに、大人と同様の措置を取り様々な感染症に対して弱っちい体にしてしまうのではなく、免疫の発達をしっかりと保障してコロナに耐えうる体をつくる。何が本質的に大事かは、生命の進化の歴史がはっきり語っている、そう僕は思っている。豪雨被害がこれ以上広がらないよう、心から念じています。 6月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/3060854 世界中が、こんなに混乱するとは考えもしなかった。もちろん、新型コロナウィルス(正式名Covid-19;コビッド19)のことだ。2019年12月に中国で最初に報告されたというこのウィルスは、今年の2月ころから瞬く間に世界にその感染を広げた。日々広がる感染を伝える報道に、不思議なことに僕自身は、怖さよりも人のつながりの大きさに驚きを覚えていた。たとえば、僕が誰か10人を紹介するとして、その紹介された10人がそれぞれ新たな10人を紹介する。それを繰り返していくと、10人目で世界中の人が紹介しつくされることになる。自分から始まり、わずか10人目で世界中の人がつながるという事実を、このコロナは可視化したように思えた。世界は狭い。そんな狭い関係しかないのに、このコロナ禍にあっても世界中が暴力と奪略、紛争や戦争から脱却することができずにいる。むしろこの傾向は、コロナ禍にあって、より拍車がかかっているとすら思える。そこに巻き込まれていくのは、常に子どもだ。新型コロナは、確かに自然災害だろう。けれど、その対処に関しては、政治が決定的な影響を与えている。分らないことだらけのウィルスだったため、過剰かとも思える自粛対応は確かにありえたのだろうとは思う。ただ、国内に限って言えば、それを進める上で欠かせなかったはずの検査体制の構築や保障の在り方については、未だにおざなりのままだ。その問題の解決が見えないまま、「新しい生活様式」というものが提唱されてきた。世界的にみても、子ども同士の感染例はその報告が極端に少ない。子どもの重症化も同様で、北九州の小学校で報告された子どものクラスターも、世界で初めてともいわれる報告事例であると同時に、感染した子ども自身はほとんどが無症状だ。つまり、このコロナは今のところ、インフルエンザのように子どもには悪さをしない、とみられている。そうであれば、インフルエンザに対するように、集団免疫を高める上でも子どもの罹患は忌避しない、そういう判断があってもいいのではないか。子どもは感染してもいい、もちろんそんなことを言っているのではない。子どもの育ちには、「密」が欠かせない。その中で、彼らは愛着を感じ、自分や他者を知り、コミュニケーションの力を育て、思いやる心を育む。彼らの育ちは早い。大人の1か月の自粛は、彼らの1年の自粛に匹敵する、いやそれ以上かもしれないくらいだ。それなのに、大人は自分に課せられた基準をそのまま子どもに適用しようと努力を重ねる。その状況が奪う子どもの育ちの機会、それに光を当てた報道は今のところほぼ見当たらない。この状況に、わずかでも疑義を唱えたいと、僕はマンガを描いてFB上に挙げてきた。今回は、それを共にアップしたい。 2020-06-22T07:57:00+09:00 世界中が、こんなに混乱するとは考えもしなかった。もちろん、新型コロナウィルス(正式名Covid-19;コビッド19)のことだ。2019年12月に中国で最初に報告されたというこのウィルスは、今年の2月ころから瞬く間に世界にその感染を広げた。日々広がる感染を伝える報道に、不思議なことに僕自身は、怖さよりも人のつながりの大きさに驚きを覚えていた。たとえば、僕が誰か10人を紹介するとして、その紹介された10人がそれぞれ新たな10人を紹介する。それを繰り返していくと、10人目で世界中の人が紹介しつくされることになる。自分から始まり、わずか10人目で世界中の人がつながるという事実を、このコロナは可視化したように思えた。世界は狭い。そんな狭い関係しかないのに、このコロナ禍にあっても世界中が暴力と奪略、紛争や戦争から脱却することができずにいる。むしろこの傾向は、コロナ禍にあって、より拍車がかかっているとすら思える。そこに巻き込まれていくのは、常に子どもだ。新型コロナは、確かに自然災害だろう。けれど、その対処に関しては、政治が決定的な影響を与えている。分らないことだらけのウィルスだったため、過剰かとも思える自粛対応は確かにありえたのだろうとは思う。ただ、国内に限って言えば、それを進める上で欠かせなかったはずの検査体制の構築や保障の在り方については、未だにおざなりのままだ。その問題の解決が見えないまま、「新しい生活様式」というものが提唱されてきた。世界的にみても、子ども同士の感染例はその報告が極端に少ない。子どもの重症化も同様で、北九州の小学校で報告された子どものクラスターも、世界で初めてともいわれる報告事例であると同時に、感染した子ども自身はほとんどが無症状だ。つまり、このコロナは今のところ、インフルエンザのように子どもには悪さをしない、とみられている。そうであれば、インフルエンザに対するように、集団免疫を高める上でも子どもの罹患は忌避しない、そういう判断があってもいいのではないか。子どもは感染してもいい、もちろんそんなことを言っているのではない。子どもの育ちには、「密」が欠かせない。その中で、彼らは愛着を感じ、自分や他者を知り、コミュニケーションの力を育て、思いやる心を育む。彼らの育ちは早い。大人の1か月の自粛は、彼らの1年の自粛に匹敵する、いやそれ以上かもしれないくらいだ。それなのに、大人は自分に課せられた基準をそのまま子どもに適用しようと努力を重ねる。その状況が奪う子どもの育ちの機会、それに光を当てた報道は今のところほぼ見当たらない。この状況に、わずかでも疑義を唱えたいと、僕はマンガを描いてFB上に挙げてきた。今回は、それを共にアップしたい。 3月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/2921599 今月11日は東日本大震災から9年、さらにさかのぼること75年前の10日は、東京大空襲で10万人以上が亡くなった日だ。そして今、社会は残念なことに「新型コロナ騒動…事件」で右往左往している。今回は今までになく長い文になるが、ぜひお付き合いしてくださればと思う。3月2日から春休みにかけて学校を全国一斉休校する、その要請を総理が発表したのがわずか4日前の2月27日だった。これはもう、単なる騒動ではなく、事件だといえる。遊ぶことの重要性を伝え続けた身からすれば、学校は子どもの最も重要な時間を独り占めしており、その育ちに貢献もしただろうが悪影響も多大に与えてきたと考えている。日ごろから少なくとも小学生は午前授業で十分と思っているので、「学校に行かないでいい日」ができることは、単純に歓迎したい。けれどそれは、子どもが遊ぶことの価値を認めるが故である必要があり、今回の要請はそんなこととは真逆の、もう権力を持つ者の単なる思い付きとしか言いようがない状況だと感じている。。新型コロナウィルスがこれだけの騒動になったことには、様々な要因が考えられる。昨年暮れに中国で感染が確認されて以来、いまだにその正体がつかめていないこと。感染が瞬く間に国境をまたぎ、今では世界中に広がりを見せていること。その感染ルートが、感染の始まり以来はっきりとつかめていないこと。症状が出ていない人でも、陽性の人が発見されていること。正体がわからないため、発症後の治療方法がわからないこと。発症した人から何人もの死者が出ていること。マスクはまだしも、トイレットペーパーや食料品の買い占め等、根拠のない行動は社会不安の表れといえる。不安と心配、この入り混じった心情が相乗効果でさらに高まっていく。これは、9年前の東日本大震災の際も見られた現象だ。「心配」と「不安」は、実は似て非なる心の状態だといえる。[心配]には根拠がある。今回で言えば、その根拠は「感染した時に重篤化し、特効薬がなく死に至る人もいる」ということだ。この心配の根拠に関しては、感染を防ぐためにできることをする、という答えがある。新型であっても「コロナ」というウィルス種であることは特定されている。あのサーズもマースも同じコロナ種だが、このコロナウィルスの仲間は最も外側が膜で包まれている。エンベロープと呼ばれるその部分が増殖には不可欠で、これが壊れると不活性化し増殖できない。このエンベロープはアルコールや石鹸に弱く、なので手洗いが盛んに奨励されている。マスクは、今のところ飛沫感染すると言われているコロナを人にうつさないための効果は見込めるが、感染を防ぐことへの期待値は低い。こうした今わかっている事実を考えると、今できる心配の解消策は非常にシンプルだとわかる。アルコールや石鹸による、手洗いだ。それ以外の有効策は、例えば屋内の場合、ウィルスが漂っている可能性がある空気を滞留させないために換気をする、体と体が触れ合う空間に長くいない、そもそも空気が滞留することがない屋外を選ぶ、ことくらいだろう。しかしそれらをすべて実践したとして、それでも残るとすれば、それは「心配」ではなく「不安」である可能性が高い。不安を全く持たない人はいないかもしれないが、不安は、一人一人の感度によって全く異なって迫ってくる。不安の感度は、その人が育ってきた背景や経験、現在の生活の安定度、また、将来への見通し等すべてが要素となりえ、それらが絡まりあって高まっていく。なので、手洗いをそこそこしたらあとは罹るかどうかは時の運、くらいに思える人もいれば、手を頻繁に洗いいくらマスクを買いだめしても不安な人もいる。それ自体に良いも悪いもないが、心配と不安が混然一体化していないかを検証することは大事なことだ。というのも「不安」は「心配」と違い、手洗いをする等の具体的な答えがなく、自らの不安と対峙する以外、軽くする方法はないからだ。そして、この「不安」には厄介な側面がある。自分ではいかんともしがたい思いのひとつでもあるので、この不安を取り除いてくれるのなら藁にもすがる場合がある、ということだ。あの、社会的には成功者と思えるようなカリスマバンドであるエックスジャパンのボーカルでさえ、得体の知れない不安に打ち勝てず洗脳されてしまったように、不安は時として心を蝕んでしまう。いきなりではあるが、第2次世界大戦を引き起こした、ドイツ・ヒットラーのナチズムやイタリア・ムッソリーニのファシズムを「全体主義」と呼ぶ(日本の軍国主義は若干性格を異にするがこれに含むこともある)が、あの破壊的な政治が国民の大歓迎を受けて発足した背景には、この得体のしれない社会不安が民衆の多くに蔓延していたからと、歴史の検証は指摘している。個々人の力ではぬぐえない不安が社会を覆い、この現状を何とか打破してほしいと多くが感じていたところに、あの「強い指導者」たちが現れた。その強力な指導者の下で一致団結すれば、現状が打破できる!国民は熱狂して彼らを迎えた。国民の大勢がそう動いたことで「全体主義」が生まれた、とする分析は、一人一人がわが身を振り返っても心当たりがあるのではないだろうか。自分はそう思わないが、みんながそう言うなら別に事を荒立て孤立したくない。みんなと同じであることを重視し空気を読まない人を批判する今の風潮は、その意味でかなり危険な状況をすでにはらんでいるのだろう。特別措置法に盛り込まれた「緊急事態宣言」、この状況ではなかなか真っ向から反論し辛い「感染防止のため」という文言。それも総理の一言でそれを発動できるという、強い権限。個人の権利を大幅にしかも強制的に制限することができるこの法律は、確かに強い力の象徴といえる。けれど、総理が法的な根拠もない中で出した「要請」にこれだけ粛々と協力する日本の中で、こうした強権的な法律が本当に必要なのか、それに関して全く議論が進んでいない。そもそも冒頭に書いた学校の一斉休校だが、インフルエンザ等の感染症の場合、学校で感染が広がった結果学級閉鎖や学校閉鎖が行われることが通常だ。けれど、いろいろ調べているのだが、新型コロナがクラスに蔓延し学級閉鎖に追い込まれたという例は、中国や韓国からも、どこからも報告されていない(日本語ニュースしか読んでいないが)。子どもの発症は屋内を中心に大人からうつされていることがほとんどで、子ども同士がうつし合うといった報告自体が見当たらないのだ。つまり、この新型コロナは、基本的に子どもは罹りにくいのではないのだろうか。それなのに全校一斉休校を要請し、緊急事態宣言ができるようにわざわざした。しかもそのどちらも、専門家からは全くその必要性は指摘されていないという。それどころか、むしろ首をかしげる専門家すら少なくない。それを指導力と呼ぶのか、政権濫用による権力の誇示と呼ぶのか、その指導力に大きな期待を寄せて任せてしまうのか、危険な側面もあると自分自身の頭で考えようとするのか、自分の中の不安分子をしっかり見つめながら、一度立ち止まって考える必要がある。長くなった最後に、子どもや親に呼びかけたい。この状況においては、「絶対に感染しない」予防方法はそもそもないと考える。大切なことは、そのリスクをいかに下げられるか、と言うことと、そのリスクと我慢を強いることで起こりうるマイナス面を比較したとき、本当に我慢を強いることが適切か、という観点だろう。ぼくが進めてきた冒険遊び場は、屋外で雑菌だらけだ。舞い立つ土埃、地べたをハイハイする、汚れた手を口に運ぶ、どろを口にする子も珍しくない。ここで遊ぶ子は日ごろから免疫をフル稼働だ。だから、ここで子育てを始めた親は、口をそろえて言う。うちの子は風邪をひかなくなった、と。それともうひとつ。雑菌だらけということは、細菌やウィルスにとっても新たに縄張りを獲得することが難しい。微小な世界でも縄張り争いは激しく、新参者の細菌やウィルスは簡単には居心地のいいスペースを獲得できない。むしろしっかり殺菌してしまうから、がら空きの縄張りに大喜びして新参者が飛び込み繁殖してしまう。なので、ドアノブは殺菌よりどろを塗りたくれ、と僕は言いたいくらいだ。免疫力を高める上では太陽の日を浴びることも不可欠で、屋外での遊びは最高の効果を発揮する。それでも、罹るときには罹ることはあるが、屋内でも罹患するリスクはなくならない。ならば、親子ともども屋内に閉じ込もりストレスをため、そしてストレスは免疫を下げ、という悪循環のでに陥るよりずっとましではないか。外側の危険を取り除くことも大事だが、完璧になど不可能な以上内側から危険をはねのける力を蓄えること以上に重要なことはない。ことに温暖化の中どんな病原体がこれからも現れるかわからない時代だからこそ、免疫力という内側こそ鍛えておく必要があるし、ストレスに強い心を養っていく必要がある。遊ぶことが、その力を育てる上で不可欠であることを改めて知ってほしい。3月10日・東京大空襲、11日・東日本大震災とそれに続く原発事件、それ以外ここ数年を見ても大きな出来事で熊本地震、九州北部豪雨、西日本豪雨、北海道地震、台風による大水害等、人は多くの困難に直面してきた。東日本大震災の被災者は、9年間、その問題と向き合い続けてきている。問題が起きて数か月のコロナとは、比較にならない苦闘の時間だ。子どもの希望のためにも、大人は我をしっかり保ち、前を向いていたい。 2020-03-12T05:19:00+09:00 今月11日は東日本大震災から9年、さらにさかのぼること75年前の10日は、東京大空襲で10万人以上が亡くなった日だ。そして今、社会は残念なことに「新型コロナ騒動…事件」で右往左往している。今回は今までになく長い文になるが、ぜひお付き合いしてくださればと思う。3月2日から春休みにかけて学校を全国一斉休校する、その要請を総理が発表したのがわずか4日前の2月27日だった。これはもう、単なる騒動ではなく、事件だといえる。遊ぶことの重要性を伝え続けた身からすれば、学校は子どもの最も重要な時間を独り占めしており、その育ちに貢献もしただろうが悪影響も多大に与えてきたと考えている。日ごろから少なくとも小学生は午前授業で十分と思っているので、「学校に行かないでいい日」ができることは、単純に歓迎したい。けれどそれは、子どもが遊ぶことの価値を認めるが故である必要があり、今回の要請はそんなこととは真逆の、もう権力を持つ者の単なる思い付きとしか言いようがない状況だと感じている。。新型コロナウィルスがこれだけの騒動になったことには、様々な要因が考えられる。昨年暮れに中国で感染が確認されて以来、いまだにその正体がつかめていないこと。感染が瞬く間に国境をまたぎ、今では世界中に広がりを見せていること。その感染ルートが、感染の始まり以来はっきりとつかめていないこと。症状が出ていない人でも、陽性の人が発見されていること。正体がわからないため、発症後の治療方法がわからないこと。発症した人から何人もの死者が出ていること。マスクはまだしも、トイレットペーパーや食料品の買い占め等、根拠のない行動は社会不安の表れといえる。不安と心配、この入り混じった心情が相乗効果でさらに高まっていく。これは、9年前の東日本大震災の際も見られた現象だ。「心配」と「不安」は、実は似て非なる心の状態だといえる。[心配]には根拠がある。今回で言えば、その根拠は「感染した時に重篤化し、特効薬がなく死に至る人もいる」ということだ。この心配の根拠に関しては、感染を防ぐためにできることをする、という答えがある。新型であっても「コロナ」というウィルス種であることは特定されている。あのサーズもマースも同じコロナ種だが、このコロナウィルスの仲間は最も外側が膜で包まれている。エンベロープと呼ばれるその部分が増殖には不可欠で、これが壊れると不活性化し増殖できない。このエンベロープはアルコールや石鹸に弱く、なので手洗いが盛んに奨励されている。マスクは、今のところ飛沫感染すると言われているコロナを人にうつさないための効果は見込めるが、感染を防ぐことへの期待値は低い。こうした今わかっている事実を考えると、今できる心配の解消策は非常にシンプルだとわかる。アルコールや石鹸による、手洗いだ。それ以外の有効策は、例えば屋内の場合、ウィルスが漂っている可能性がある空気を滞留させないために換気をする、体と体が触れ合う空間に長くいない、そもそも空気が滞留することがない屋外を選ぶ、ことくらいだろう。しかしそれらをすべて実践したとして、それでも残るとすれば、それは「心配」ではなく「不安」である可能性が高い。不安を全く持たない人はいないかもしれないが、不安は、一人一人の感度によって全く異なって迫ってくる。不安の感度は、その人が育ってきた背景や経験、現在の生活の安定度、また、将来への見通し等すべてが要素となりえ、それらが絡まりあって高まっていく。なので、手洗いをそこそこしたらあとは罹るかどうかは時の運、くらいに思える人もいれば、手を頻繁に洗いいくらマスクを買いだめしても不安な人もいる。それ自体に良いも悪いもないが、心配と不安が混然一体化していないかを検証することは大事なことだ。というのも「不安」は「心配」と違い、手洗いをする等の具体的な答えがなく、自らの不安と対峙する以外、軽くする方法はないからだ。そして、この「不安」には厄介な側面がある。自分ではいかんともしがたい思いのひとつでもあるので、この不安を取り除いてくれるのなら藁にもすがる場合がある、ということだ。あの、社会的には成功者と思えるようなカリスマバンドであるエックスジャパンのボーカルでさえ、得体の知れない不安に打ち勝てず洗脳されてしまったように、不安は時として心を蝕んでしまう。いきなりではあるが、第2次世界大戦を引き起こした、ドイツ・ヒットラーのナチズムやイタリア・ムッソリーニのファシズムを「全体主義」と呼ぶ(日本の軍国主義は若干性格を異にするがこれに含むこともある)が、あの破壊的な政治が国民の大歓迎を受けて発足した背景には、この得体のしれない社会不安が民衆の多くに蔓延していたからと、歴史の検証は指摘している。個々人の力ではぬぐえない不安が社会を覆い、この現状を何とか打破してほしいと多くが感じていたところに、あの「強い指導者」たちが現れた。その強力な指導者の下で一致団結すれば、現状が打破できる!国民は熱狂して彼らを迎えた。国民の大勢がそう動いたことで「全体主義」が生まれた、とする分析は、一人一人がわが身を振り返っても心当たりがあるのではないだろうか。自分はそう思わないが、みんながそう言うなら別に事を荒立て孤立したくない。みんなと同じであることを重視し空気を読まない人を批判する今の風潮は、その意味でかなり危険な状況をすでにはらんでいるのだろう。特別措置法に盛り込まれた「緊急事態宣言」、この状況ではなかなか真っ向から反論し辛い「感染防止のため」という文言。それも総理の一言でそれを発動できるという、強い権限。個人の権利を大幅にしかも強制的に制限することができるこの法律は、確かに強い力の象徴といえる。けれど、総理が法的な根拠もない中で出した「要請」にこれだけ粛々と協力する日本の中で、こうした強権的な法律が本当に必要なのか、それに関して全く議論が進んでいない。そもそも冒頭に書いた学校の一斉休校だが、インフルエンザ等の感染症の場合、学校で感染が広がった結果学級閉鎖や学校閉鎖が行われることが通常だ。けれど、いろいろ調べているのだが、新型コロナがクラスに蔓延し学級閉鎖に追い込まれたという例は、中国や韓国からも、どこからも報告されていない(日本語ニュースしか読んでいないが)。子どもの発症は屋内を中心に大人からうつされていることがほとんどで、子ども同士がうつし合うといった報告自体が見当たらないのだ。つまり、この新型コロナは、基本的に子どもは罹りにくいのではないのだろうか。それなのに全校一斉休校を要請し、緊急事態宣言ができるようにわざわざした。しかもそのどちらも、専門家からは全くその必要性は指摘されていないという。それどころか、むしろ首をかしげる専門家すら少なくない。それを指導力と呼ぶのか、政権濫用による権力の誇示と呼ぶのか、その指導力に大きな期待を寄せて任せてしまうのか、危険な側面もあると自分自身の頭で考えようとするのか、自分の中の不安分子をしっかり見つめながら、一度立ち止まって考える必要がある。長くなった最後に、子どもや親に呼びかけたい。この状況においては、「絶対に感染しない」予防方法はそもそもないと考える。大切なことは、そのリスクをいかに下げられるか、と言うことと、そのリスクと我慢を強いることで起こりうるマイナス面を比較したとき、本当に我慢を強いることが適切か、という観点だろう。ぼくが進めてきた冒険遊び場は、屋外で雑菌だらけだ。舞い立つ土埃、地べたをハイハイする、汚れた手を口に運ぶ、どろを口にする子も珍しくない。ここで遊ぶ子は日ごろから免疫をフル稼働だ。だから、ここで子育てを始めた親は、口をそろえて言う。うちの子は風邪をひかなくなった、と。それともうひとつ。雑菌だらけということは、細菌やウィルスにとっても新たに縄張りを獲得することが難しい。微小な世界でも縄張り争いは激しく、新参者の細菌やウィルスは簡単には居心地のいいスペースを獲得できない。むしろしっかり殺菌してしまうから、がら空きの縄張りに大喜びして新参者が飛び込み繁殖してしまう。なので、ドアノブは殺菌よりどろを塗りたくれ、と僕は言いたいくらいだ。免疫力を高める上では太陽の日を浴びることも不可欠で、屋外での遊びは最高の効果を発揮する。それでも、罹るときには罹ることはあるが、屋内でも罹患するリスクはなくならない。ならば、親子ともども屋内に閉じ込もりストレスをため、そしてストレスは免疫を下げ、という悪循環のでに陥るよりずっとましではないか。外側の危険を取り除くことも大事だが、完璧になど不可能な以上内側から危険をはねのける力を蓄えること以上に重要なことはない。ことに温暖化の中どんな病原体がこれからも現れるかわからない時代だからこそ、免疫力という内側こそ鍛えておく必要があるし、ストレスに強い心を養っていく必要がある。遊ぶことが、その力を育てる上で不可欠であることを改めて知ってほしい。3月10日・東京大空襲、11日・東日本大震災とそれに続く原発事件、それ以外ここ数年を見ても大きな出来事で熊本地震、九州北部豪雨、西日本豪雨、北海道地震、台風による大水害等、人は多くの困難に直面してきた。東日本大震災の被災者は、9年間、その問題と向き合い続けてきている。問題が起きて数か月のコロナとは、比較にならない苦闘の時間だ。子どもの希望のためにも、大人は我をしっかり保ち、前を向いていたい。