歌おう ~震災に対して心をひとつに~ http://utaoufor311.grupo.jp/ 震災応援歌「ふるさと」を、同時刻に日本中・世界中で ja 歌おう ~震災に対して心をひとつに~ http://utaoufor311.grupo.jp/ 8月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1862318 6月7日からの九州北部豪雨。大きな被害を受けた朝倉市に、7月16日、ぼくはたまたま行くことが決まっていた。朝倉でプレーパークをつくりたい、と行動を開始した市民から呼ばれていたからだ。そもそもは、その隣の柳川市から初めに声をかけられたことによる。柳川にもプレーパークを、という動きがあり、視察を兼ねて呼ばれていた。だったら朝倉にも来てほしい、と。柳川市は有明海に面しており、筑後川が海にそそぐ。その有明海は流木で波打ち際が埋め尽くされていたが、直接の被害はないようだった。上流に当たる筑後川の支流、その橋げたにこの流木が引っ掛かり、ダムをつくり、流れをせき止め、そして甚大な被害を生んだ。朝倉市の中心部は被害を免れていたが、支流を少し上がると風景が一変した。40センチほどに育った稲を、田んぼごと埋め尽くす大量の土砂。残った田んぼも、用水路が埋められているので水が引けない。筑後川の支流とはいっても、グーグルマップで見る限りは名前さえ載っていない細い川だ。その川と両側を走る道。その痕跡など全くない、ただただ埋め尽くされた一面の土砂。(写真は今後掲載予定)おそらく、数メートルは堆積しているのだろう。これって、撤去できるのか?無理だろう…?との思いが何度もよぎった。一面の土砂からところどころに突き出す流木の山。中には直径が40センチを超えるものすらある。これらが、あちらこちらで流れをせき止めたのだろう。その上流は、さらに土砂が高くなっていた。いつもそうだが、災害の現場はそこに立たないと被害の実態が分からない。テレビで見ているのだが、その規模は2次元画面ではどうしたって伝わらない。今回も、愕然とするしかなかった。けれど、その惨状にあり、今回はひとつ喜ばしい出来事があった。避難所として使っていた公民館の中に、屋内遊び場ができていたことだ。臨床心理士たちによるものだという。公民館自体が日ごろから地域で運営されていたため、避難所も地域で協力してスムーズに運営できているという。その中での遊び場なので、子どもたちも安心できるという。トラウマ体験がさまざまな症状を呼び起こすPTSD(ポストトラウマチックストレスディスオーダー=心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状があるが、逆に、トラウマ体験を得たがゆえに成長することもあり、これをPTG(ポストトラウマチックグロウス=心的外傷後成長)と呼ぶ。「この子たちはそうした状況になれるかもしれない」と、臨床心理士は言っていた。そういう、関係に支えられた避難所に巡り合うことができたのは、子どもにとって不幸中の幸いだ。この車を、熊本から朝倉に8月いっぱい貸し出すことがその後決まった。朝倉の人たちは活気づいた。ぼくの講演はさすがに中止となり気分的にも落ち込んだと言っていたが、それでも予定通りぼくは行き、阪神や東日本でのことを話した。「こんな時だから何とか自分たちも」と思った矢先の貸し出し申し出だった。柳川の人たちも、できることがあれば協力する!と言い、同じく福岡県宗像市で遊び場づくりを行うメンバーも、さっそく協力に動き出している。遊び場づくりという、子どもの最高の笑顔を求めて活動を始めた人たちの、つながりが繋がりを生んでいく。こんなにうれしいことはない。災害は、いつどこで起きるかわからないし、避けることも容易ではない。この夏も、至るところで土砂災害や浸水災害が起きている。けれど、そういう場面に出会っても、だからこそ、大人にとってもPTGとするチャンスだ。今回のことは、改めてそう思わせてくれた。 2017-08-11T12:27:00+09:00 6月7日からの九州北部豪雨。大きな被害を受けた朝倉市に、7月16日、ぼくはたまたま行くことが決まっていた。朝倉でプレーパークをつくりたい、と行動を開始した市民から呼ばれていたからだ。そもそもは、その隣の柳川市から初めに声をかけられたことによる。柳川にもプレーパークを、という動きがあり、視察を兼ねて呼ばれていた。だったら朝倉にも来てほしい、と。柳川市は有明海に面しており、筑後川が海にそそぐ。その有明海は流木で波打ち際が埋め尽くされていたが、直接の被害はないようだった。上流に当たる筑後川の支流、その橋げたにこの流木が引っ掛かり、ダムをつくり、流れをせき止め、そして甚大な被害を生んだ。朝倉市の中心部は被害を免れていたが、支流を少し上がると風景が一変した。40センチほどに育った稲を、田んぼごと埋め尽くす大量の土砂。残った田んぼも、用水路が埋められているので水が引けない。筑後川の支流とはいっても、グーグルマップで見る限りは名前さえ載っていない細い川だ。その川と両側を走る道。その痕跡など全くない、ただただ埋め尽くされた一面の土砂。(写真は今後掲載予定)おそらく、数メートルは堆積しているのだろう。これって、撤去できるのか?無理だろう…?との思いが何度もよぎった。一面の土砂からところどころに突き出す流木の山。中には直径が40センチを超えるものすらある。これらが、あちらこちらで流れをせき止めたのだろう。その上流は、さらに土砂が高くなっていた。いつもそうだが、災害の現場はそこに立たないと被害の実態が分からない。テレビで見ているのだが、その規模は2次元画面ではどうしたって伝わらない。今回も、愕然とするしかなかった。けれど、その惨状にあり、今回はひとつ喜ばしい出来事があった。避難所として使っていた公民館の中に、屋内遊び場ができていたことだ。臨床心理士たちによるものだという。公民館自体が日ごろから地域で運営されていたため、避難所も地域で協力してスムーズに運営できているという。その中での遊び場なので、子どもたちも安心できるという。トラウマ体験がさまざまな症状を呼び起こすPTSD(ポストトラウマチックストレスディスオーダー=心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状があるが、逆に、トラウマ体験を得たがゆえに成長することもあり、これをPTG(ポストトラウマチックグロウス=心的外傷後成長)と呼ぶ。「この子たちはそうした状況になれるかもしれない」と、臨床心理士は言っていた。そういう、関係に支えられた避難所に巡り合うことができたのは、子どもにとって不幸中の幸いだ。この車を、熊本から朝倉に8月いっぱい貸し出すことがその後決まった。朝倉の人たちは活気づいた。ぼくの講演はさすがに中止となり気分的にも落ち込んだと言っていたが、それでも予定通りぼくは行き、阪神や東日本でのことを話した。「こんな時だから何とか自分たちも」と思った矢先の貸し出し申し出だった。柳川の人たちも、できることがあれば協力する!と言い、同じく福岡県宗像市で遊び場づくりを行うメンバーも、さっそく協力に動き出している。遊び場づくりという、子どもの最高の笑顔を求めて活動を始めた人たちの、つながりが繋がりを生んでいく。こんなにうれしいことはない。災害は、いつどこで起きるかわからないし、避けることも容易ではない。この夏も、至るところで土砂災害や浸水災害が起きている。けれど、そういう場面に出会っても、だからこそ、大人にとってもPTGとするチャンスだ。今回のことは、改めてそう思わせてくれた。 7月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1829721 東日本大震災から6年。その年の10月から被災地を走り続けて14万キロ超(なんと地球3周半!)。そのあそぼっかーのエンジンが、ついに壊れてしまった。当時、日本冒険遊び場づくり協会が遊ぶことを通した子どもの心のケアとして、気仙沼に常設の遊び場を展開していた。けれど、遊び場を必要としている子どもはそこら中にいるのに、被災地域はあまりに広大で一か所だけではあまりにも心もとなかった。そんな時、遊び場の活動を知った企業が協力を申し出てくださった。最初はカードで有名なアメックス、次にナイフで有名なビクトリノックス。この時とばかり、この二つの企業に、それぞれ遊び道具を満載しど派手なペイントを車体に描いた軽のワンボックスカー、プレーカーの配車を提案した。プレーカー1号は、仙台で震災前から遊び場活動をしていた「冒険遊び場・せんだい-みやぎネットワーク」に貸与し、流されてしまった遊び場の代わりに、各所で出前遊び場を展開した。2号は「あそぼっかー」と命名され、運転するプレーワーカーとして、以前、阪神淡路大震災で共に遊び場づくりをした須永力(あだ名はぶんちゃ)に声をかけた。二つ返事であそぼっカーに搭乗したぶんちゃは、被災地を北に南にと駆け回った。その結果が、5年4カ月で14万キロという数字だった。走り始めた翌年、この活動を知った日本ユニセフ協会がその重要性を見抜き、あと2台(命名:あそぶーぶー、あそびたいや)と搭乗するプレーワーカーの人件費を担ってくれた。このメンバーはのちに「プレーワーカーズ」という一般社団法人をつくり独立、自分たちでプレーカー3台を走らせていた。それが、夏休みを目前にしたこの時期の故障。エンジンが動かなくなっているので、エンジンの積み替えか車自体の買い替えしかない。けれど、見てきたように、この車はたくさんの人の思いが詰まって生まれてきた。新たに買い替えれば済むという話ではない。もちろん、お金もかかる。プレーカーは、その性格上、利用者からお金を取ることなく出前に出向いている。なので、こういう事態に出会った時の修理代がなかなか積み立てられないのだ。FB上に故障の話がアップされると、多くの人が残念がった。「ここでカンパを募れば少しは足しにできるかもしれない」ぶんちゃに、振込先をアップしてもらった。この話、この原稿を書いた7月7日時点で決着がついたわけではない。けれど、FBでこの件を知った人が、ひょっとしたら寄付してくれる可能性が出てきた。すごいな、文明の利器!荷物満載で14万キロも走っているのだから、エンジンを直しても次に何が壊れるかわからない。けれど、1日でも長く、1キロでも先に走り、そこで待っている子ども、大人、親子に「遊ぶって楽しんだぜ!」を届けてあげてほしい。子どものその姿を見て「遊ぶことは本当に大事なんだ」と思う大人がたっくさん増えること。プレーカーは、これからもその種まきをし続けていく。 2017-07-11T13:13:00+09:00 東日本大震災から6年。その年の10月から被災地を走り続けて14万キロ超(なんと地球3周半!)。そのあそぼっかーのエンジンが、ついに壊れてしまった。当時、日本冒険遊び場づくり協会が遊ぶことを通した子どもの心のケアとして、気仙沼に常設の遊び場を展開していた。けれど、遊び場を必要としている子どもはそこら中にいるのに、被災地域はあまりに広大で一か所だけではあまりにも心もとなかった。そんな時、遊び場の活動を知った企業が協力を申し出てくださった。最初はカードで有名なアメックス、次にナイフで有名なビクトリノックス。この時とばかり、この二つの企業に、それぞれ遊び道具を満載しど派手なペイントを車体に描いた軽のワンボックスカー、プレーカーの配車を提案した。プレーカー1号は、仙台で震災前から遊び場活動をしていた「冒険遊び場・せんだい-みやぎネットワーク」に貸与し、流されてしまった遊び場の代わりに、各所で出前遊び場を展開した。2号は「あそぼっかー」と命名され、運転するプレーワーカーとして、以前、阪神淡路大震災で共に遊び場づくりをした須永力(あだ名はぶんちゃ)に声をかけた。二つ返事であそぼっカーに搭乗したぶんちゃは、被災地を北に南にと駆け回った。その結果が、5年4カ月で14万キロという数字だった。走り始めた翌年、この活動を知った日本ユニセフ協会がその重要性を見抜き、あと2台(命名:あそぶーぶー、あそびたいや)と搭乗するプレーワーカーの人件費を担ってくれた。このメンバーはのちに「プレーワーカーズ」という一般社団法人をつくり独立、自分たちでプレーカー3台を走らせていた。それが、夏休みを目前にしたこの時期の故障。エンジンが動かなくなっているので、エンジンの積み替えか車自体の買い替えしかない。けれど、見てきたように、この車はたくさんの人の思いが詰まって生まれてきた。新たに買い替えれば済むという話ではない。もちろん、お金もかかる。プレーカーは、その性格上、利用者からお金を取ることなく出前に出向いている。なので、こういう事態に出会った時の修理代がなかなか積み立てられないのだ。FB上に故障の話がアップされると、多くの人が残念がった。「ここでカンパを募れば少しは足しにできるかもしれない」ぶんちゃに、振込先をアップしてもらった。この話、この原稿を書いた7月7日時点で決着がついたわけではない。けれど、FBでこの件を知った人が、ひょっとしたら寄付してくれる可能性が出てきた。すごいな、文明の利器!荷物満載で14万キロも走っているのだから、エンジンを直しても次に何が壊れるかわからない。けれど、1日でも長く、1キロでも先に走り、そこで待っている子ども、大人、親子に「遊ぶって楽しんだぜ!」を届けてあげてほしい。子どものその姿を見て「遊ぶことは本当に大事なんだ」と思う大人がたっくさん増えること。プレーカーは、これからもその種まきをし続けていく。 6月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1800477 震災をきっかけに、東北に移住し、今でも活動を続ける友人から報告が届いた。その中の一文に、以下のようなものがある。「陸前高田市は、未だに復興は進んでおらず町のほとんどは復旧していない市です。本当に進んでいません。」「本当に進んでいない」、そこに想いを寄せ続ける者だから言える、迫力のあることば。陸前高田市に初めて入ったのは、震災からもう数カ月もたっていた。陸前高田市は、岩手県の沿岸部最南端に当たる。ぼくたちが遊び場を立ち上げた気仙沼市は、宮城県沿岸部の最北に当たり、山を挟み隣となる。隣の市とはいえ、遊び場は気仙沼市の中では最も南側にあり、少し南下すれば隣の南三陸町だ。それに、まだ当時は道がまだしっかりと確保されていなかったようにも記憶している。気仙沼市内を抜けて陸前高田に北上するのは、まだ困難だった。いや、そればかりではない。正直なことを言えば、怖かったのだ。気仙沼に入るときもそうだったが、そこで一体何が起きているのか、テレビを見るようには行かない臨場感が、心も体も縛り上げていた。そして、陸前高田に行くためには避けて通ることができない気仙沼市内の最北端の鹿折地区。記憶にとどめている方もいらっしゃるかもしれない。石油タンクから油が流出し、流された瓦礫に付着、海面が燃え上がったのだ。押し寄せる海面と、全てを焼き尽くさんばかりの業火。ぼくもテレビでしか見てはいないが、「地獄だ」と心が凍る光景だった。鹿折に初めて入ったのは震災から2カ月後くらいだったが、その時も本当に怖かった。油特有の、鼻を突く強烈な臭いが、さらに僕の心を縛り上げたことを覚えている。ここで何が起きたんだ!・・・想像するのが怖かった。想像しても仕切れるものではないのだが、初めて行ったときには思考が停止していたのではないかと思う。おそらく、感情も。陸前高田で鮮明に覚えているのは、老人ホームの光景だ。そのホームが建っているところからは、建物がすべて流されているにもかかわらず、海は見えない。なのに、中に入ると僕よりずっと高い位置に波が暴れた後が残されていた。「真っ黒な巨大な饅頭」、津波をそうたとえた人もいるが、白い壁に、まさに真っ黒な痕跡が残されていた。水しぶきが天井にもはね、その流れがどれだけ荒々しかったかが読み取れた。ここにいたご老人は無事だったろうか、スタッフは・・・。かさ上げ工事で以前の町は見る影もなくなってしまったが、確かにここに住んでいた人々がいたし、今もいる。その中に、いまだに遊べずにいる子どもを案じ、遊び場をつくろうとしている人がいるのだと、報告にはそう書かれていた。野山を開放して、昔の子のように遊んでほしいと願い行動を起こそうとしている人がいる。すさまじい体験を乗り越えて、いや、乗り越えるために。そういう人がいることを、ぼくは常に覚えていたいと強く感じた。※管理人の都合で、掲載が遅くなりました。申し訳ありません。 2017-06-13T13:49:00+09:00 震災をきっかけに、東北に移住し、今でも活動を続ける友人から報告が届いた。その中の一文に、以下のようなものがある。「陸前高田市は、未だに復興は進んでおらず町のほとんどは復旧していない市です。本当に進んでいません。」「本当に進んでいない」、そこに想いを寄せ続ける者だから言える、迫力のあることば。陸前高田市に初めて入ったのは、震災からもう数カ月もたっていた。陸前高田市は、岩手県の沿岸部最南端に当たる。ぼくたちが遊び場を立ち上げた気仙沼市は、宮城県沿岸部の最北に当たり、山を挟み隣となる。隣の市とはいえ、遊び場は気仙沼市の中では最も南側にあり、少し南下すれば隣の南三陸町だ。それに、まだ当時は道がまだしっかりと確保されていなかったようにも記憶している。気仙沼市内を抜けて陸前高田に北上するのは、まだ困難だった。いや、そればかりではない。正直なことを言えば、怖かったのだ。気仙沼に入るときもそうだったが、そこで一体何が起きているのか、テレビを見るようには行かない臨場感が、心も体も縛り上げていた。そして、陸前高田に行くためには避けて通ることができない気仙沼市内の最北端の鹿折地区。記憶にとどめている方もいらっしゃるかもしれない。石油タンクから油が流出し、流された瓦礫に付着、海面が燃え上がったのだ。押し寄せる海面と、全てを焼き尽くさんばかりの業火。ぼくもテレビでしか見てはいないが、「地獄だ」と心が凍る光景だった。鹿折に初めて入ったのは震災から2カ月後くらいだったが、その時も本当に怖かった。油特有の、鼻を突く強烈な臭いが、さらに僕の心を縛り上げたことを覚えている。ここで何が起きたんだ!・・・想像するのが怖かった。想像しても仕切れるものではないのだが、初めて行ったときには思考が停止していたのではないかと思う。おそらく、感情も。陸前高田で鮮明に覚えているのは、老人ホームの光景だ。そのホームが建っているところからは、建物がすべて流されているにもかかわらず、海は見えない。なのに、中に入ると僕よりずっと高い位置に波が暴れた後が残されていた。「真っ黒な巨大な饅頭」、津波をそうたとえた人もいるが、白い壁に、まさに真っ黒な痕跡が残されていた。水しぶきが天井にもはね、その流れがどれだけ荒々しかったかが読み取れた。ここにいたご老人は無事だったろうか、スタッフは・・・。かさ上げ工事で以前の町は見る影もなくなってしまったが、確かにここに住んでいた人々がいたし、今もいる。その中に、いまだに遊べずにいる子どもを案じ、遊び場をつくろうとしている人がいるのだと、報告にはそう書かれていた。野山を開放して、昔の子のように遊んでほしいと願い行動を起こそうとしている人がいる。すさまじい体験を乗り越えて、いや、乗り越えるために。そういう人がいることを、ぼくは常に覚えていたいと強く感じた。※管理人の都合で、掲載が遅くなりました。申し訳ありません。 5月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1765058 不穏な空気が漂う。言うまでもなく北朝鮮とアメリカを中心とした国際情勢だが、不思議なのは日本政府の対応だ。ミサイル発射実験に、電鉄会社の多くが東京の地下鉄を止めた。「やりすぎ」との批判もあるが、万が一にも、の事態を想定したことがわかる。なのに、国は原発を止めない。こちらは、万が一がさらに万が一にでも起こったら地下鉄とは比較にならない事態を招くというのに。北朝鮮が「核」ミサイルを持とうが持つまいが、通常兵器のミサイルで原発を狙えば核爆弾投下に匹敵する効果を得られる。もし自分が北朝鮮だったら、そして本当に戦争を辞さないとしたら、米軍基地があるところと共に川内原発(鹿児島県)と玄海原発(佐賀県)をまず狙うだろう。偏西風に乗った放射性物質は、中国からの黄砂が日本全国に降り注ぐように、数日中に日本全土を覆いつくすにちがいない。日本列島を飛び越えたと報道があった弾道ミサイルの射程内にある原発は、これらだけではない。島根原発(島根県)、伊方原発(愛媛県)。特に伊方には、史上最も毒性が強い物質と言われるプルトニウムが燃料のプルサーマルがあり、例えば、これを爆撃しただけでも効果は超ど級のはずだ。福井県には高浜(含プルサーマル)、美浜、敦賀、ほかにも志賀(石川県)、柏崎刈羽(新潟県)もある。これら全ての原発がやられたら、その地域の人はもちろん、日本には安心して住める場所はなくなるのではないだろうか。これらの中には廃炉を決定しているところもあるが、短くても30年かかるといわれている。しかも、核廃棄物の最終処分方法が、相変わらずに見いだせていない。原発は、人里離れたところにある。ミサイルで亡くなる一般市民は限られ、しかしダメージは壊滅的だ。攻撃する側から考えれば、犠牲を最小限にして国際批判を極力抑え、しかも最大限の効果を得られる。攻撃にはもってこいの場所だ。こんなことは、ちょっと知識があればおそらく小学生だって思いつく。腹の中に抱えた「核爆弾」を、政府はなぜ排除しないのか。除染ができず、高線量のままの浪江町の山中。4月29日の昭和の日、落雷によるとみられる山火事が発生した。こどもの日である5月5日現在、いまだ鎮火には至っていない。樹木に吸収された放射性物質は、燃えることによって濃縮される。一般に、まきを燃やすと灰は100倍くらい濃縮されるらしい。それが炎で舞い上がり、風に乗って広範囲を汚染する。そんなことが起きてはいないか。また、雨によって土壌に吸われ、何十年何百年もたって地下水として地表に姿を現すことだってある。もちろん、放射性物質によっては、半減期はそんなものではない。町は、この4月から帰還困難地域の一部を解除し、町民の中には帰町を開始している人も多くいる。その人たちに、今度はきちんとこの情報は届けられているのだろうか。空間線量等、この件について、都市部のニュースではほとんど報道されていない。福島の子どもに有意に甲状腺がんが多いのに、原発との関連を、公式には一切認めていない。それどころか、健診データそのものを系統だって集めようとしていないのだという。原因を突き止める、そのためのデータそのものがしっかりとられていないとすれば、これは何か意図的であると言われても仕方がない。情報自体をそもそも集めない?し、集めても表に出さない?国際NGOである「国境なき記者団」が毎年発表している「報道の自由度ランキング」というものがある。180か国中、日本は前年の61位から72位へと大きく後退した。おそらく、多くの国民の実感とも齟齬がないのではないか。「昭和の日」に起きた、被災地域での一つの火災。昭和という時代は、あらゆる意味で大変な転換期だったと言える。後世に続く素晴らしいものをたくさん残したが、第2次世界大戦という取り返しがつかない巨大な負の出来事からは、まだ全く学習が足りていないように思える。「こどもの日」に、子どもたちに胸を張ってプレゼントできる社会、さまざまな困難な状況にも遊び心を持ち、周りの人と力を合わせて楽しみながら乗り切る、そんな社会を来年こそはプレゼントできるだろうか。 2017-05-10T22:12:00+09:00 不穏な空気が漂う。言うまでもなく北朝鮮とアメリカを中心とした国際情勢だが、不思議なのは日本政府の対応だ。ミサイル発射実験に、電鉄会社の多くが東京の地下鉄を止めた。「やりすぎ」との批判もあるが、万が一にも、の事態を想定したことがわかる。なのに、国は原発を止めない。こちらは、万が一がさらに万が一にでも起こったら地下鉄とは比較にならない事態を招くというのに。北朝鮮が「核」ミサイルを持とうが持つまいが、通常兵器のミサイルで原発を狙えば核爆弾投下に匹敵する効果を得られる。もし自分が北朝鮮だったら、そして本当に戦争を辞さないとしたら、米軍基地があるところと共に川内原発(鹿児島県)と玄海原発(佐賀県)をまず狙うだろう。偏西風に乗った放射性物質は、中国からの黄砂が日本全国に降り注ぐように、数日中に日本全土を覆いつくすにちがいない。日本列島を飛び越えたと報道があった弾道ミサイルの射程内にある原発は、これらだけではない。島根原発(島根県)、伊方原発(愛媛県)。特に伊方には、史上最も毒性が強い物質と言われるプルトニウムが燃料のプルサーマルがあり、例えば、これを爆撃しただけでも効果は超ど級のはずだ。福井県には高浜(含プルサーマル)、美浜、敦賀、ほかにも志賀(石川県)、柏崎刈羽(新潟県)もある。これら全ての原発がやられたら、その地域の人はもちろん、日本には安心して住める場所はなくなるのではないだろうか。これらの中には廃炉を決定しているところもあるが、短くても30年かかるといわれている。しかも、核廃棄物の最終処分方法が、相変わらずに見いだせていない。原発は、人里離れたところにある。ミサイルで亡くなる一般市民は限られ、しかしダメージは壊滅的だ。攻撃する側から考えれば、犠牲を最小限にして国際批判を極力抑え、しかも最大限の効果を得られる。攻撃にはもってこいの場所だ。こんなことは、ちょっと知識があればおそらく小学生だって思いつく。腹の中に抱えた「核爆弾」を、政府はなぜ排除しないのか。除染ができず、高線量のままの浪江町の山中。4月29日の昭和の日、落雷によるとみられる山火事が発生した。こどもの日である5月5日現在、いまだ鎮火には至っていない。樹木に吸収された放射性物質は、燃えることによって濃縮される。一般に、まきを燃やすと灰は100倍くらい濃縮されるらしい。それが炎で舞い上がり、風に乗って広範囲を汚染する。そんなことが起きてはいないか。また、雨によって土壌に吸われ、何十年何百年もたって地下水として地表に姿を現すことだってある。もちろん、放射性物質によっては、半減期はそんなものではない。町は、この4月から帰還困難地域の一部を解除し、町民の中には帰町を開始している人も多くいる。その人たちに、今度はきちんとこの情報は届けられているのだろうか。空間線量等、この件について、都市部のニュースではほとんど報道されていない。福島の子どもに有意に甲状腺がんが多いのに、原発との関連を、公式には一切認めていない。それどころか、健診データそのものを系統だって集めようとしていないのだという。原因を突き止める、そのためのデータそのものがしっかりとられていないとすれば、これは何か意図的であると言われても仕方がない。情報自体をそもそも集めない?し、集めても表に出さない?国際NGOである「国境なき記者団」が毎年発表している「報道の自由度ランキング」というものがある。180か国中、日本は前年の61位から72位へと大きく後退した。おそらく、多くの国民の実感とも齟齬がないのではないか。「昭和の日」に起きた、被災地域での一つの火災。昭和という時代は、あらゆる意味で大変な転換期だったと言える。後世に続く素晴らしいものをたくさん残したが、第2次世界大戦という取り返しがつかない巨大な負の出来事からは、まだ全く学習が足りていないように思える。「こどもの日」に、子どもたちに胸を張ってプレゼントできる社会、さまざまな困難な状況にも遊び心を持ち、周りの人と力を合わせて楽しみながら乗り切る、そんな社会を来年こそはプレゼントできるだろうか。 4月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1728665 「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律」というものがある。「子ども・被災者支援法」と略称されたこの法律は、2012年6月21日に衆院において全会一致で可決された。その法律では、原発事故による避難者、被災者に関しては、自主避難者を区別していない。例えば、避難指示が解除されても帰らないと判断した場合でも、帰った人と同等な支援が継続されることを目的としてできている。それが、今回、政府は自主避難者への居住にかかる費用負担をしないとした。家賃補助がない、そのことを復興相が「自己責任」だと言って、物議をかもしている。行ってみればわかるが、福島ではどうも一戸建てが当たり前のようだ。しかも、都会のように隣家と50㎝しか隙間がないというものではなく、十分な庭がある。そこに住み続けることができていたら住んでいたであろう、一戸建ての家。避難指示を受け、去らなければならなかった原因は、原発事故による。当然、多くは職も失う。第一次産業の従事者も多く、土地が汚染されていたら何もできない。従来に比べ、極端に狭い住環境。仮設住宅等の新しいコミュニティ。新たな学校、職場。しかも、いつ避難指示は解かれるかわからない。地元に帰りたい気持ちがいくら強くても、新しい生活は否応なしに始まる。そんな状況で、6年も暮らしてきたのだ。いきなり仮設住宅の供与が打ち切られ、帰還するか、自分で家賃を払って借りるかを迫られる。そんなことが、今起こっている。しかも、復興相は「裁判でも何でも起こせばいい」とまで言い切った。首相は、「謝罪しているのだから」いいでしょ、と言う。天災である地震、それに続く津波、これらによる被害と、原発は一線を画している。津波被害は想定されていた、と、地裁判決が裁定された。内部文書にも、少なくとも被災より2年前には対策を講じる必要性が指摘されていたとある。帰還しないことは自己責任なのか。国民に自己責任を問う前に、国は自らの自己責任は何だと思っているのかを明らかにする必要がある。自己責任は、他者に問うものではなく、自らに問うものだからだ。 2017-04-10T14:25:00+09:00 「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律」というものがある。「子ども・被災者支援法」と略称されたこの法律は、2012年6月21日に衆院において全会一致で可決された。その法律では、原発事故による避難者、被災者に関しては、自主避難者を区別していない。例えば、避難指示が解除されても帰らないと判断した場合でも、帰った人と同等な支援が継続されることを目的としてできている。それが、今回、政府は自主避難者への居住にかかる費用負担をしないとした。家賃補助がない、そのことを復興相が「自己責任」だと言って、物議をかもしている。行ってみればわかるが、福島ではどうも一戸建てが当たり前のようだ。しかも、都会のように隣家と50㎝しか隙間がないというものではなく、十分な庭がある。そこに住み続けることができていたら住んでいたであろう、一戸建ての家。避難指示を受け、去らなければならなかった原因は、原発事故による。当然、多くは職も失う。第一次産業の従事者も多く、土地が汚染されていたら何もできない。従来に比べ、極端に狭い住環境。仮設住宅等の新しいコミュニティ。新たな学校、職場。しかも、いつ避難指示は解かれるかわからない。地元に帰りたい気持ちがいくら強くても、新しい生活は否応なしに始まる。そんな状況で、6年も暮らしてきたのだ。いきなり仮設住宅の供与が打ち切られ、帰還するか、自分で家賃を払って借りるかを迫られる。そんなことが、今起こっている。しかも、復興相は「裁判でも何でも起こせばいい」とまで言い切った。首相は、「謝罪しているのだから」いいでしょ、と言う。天災である地震、それに続く津波、これらによる被害と、原発は一線を画している。津波被害は想定されていた、と、地裁判決が裁定された。内部文書にも、少なくとも被災より2年前には対策を講じる必要性が指摘されていたとある。帰還しないことは自己責任なのか。国民に自己責任を問う前に、国は自らの自己責任は何だと思っているのかを明らかにする必要がある。自己責任は、他者に問うものではなく、自らに問うものだからだ。 3月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1690494 「なにこれ」「なんなんだよ」「はぁ?」「なんだこれ」「おわった」・・・・・5分にわたる映像には、この言葉だけが繰り返されていた。その映像には、津波がみるみるカサを増し、次々と全てを呑み込んでいくさまが映されていた。今月の11日で6年目を迎える、東日本大震災。ネットで改めて検索をかけると、膨大な数のビデオがあった。それを3時間ほど見た。津波の激しさを印象付けるためか、迫力のある音楽が付けられきちんと編集されたものも多かった。けれど、海が押し寄せるゴウゴウという音に混ざるガリッバギバギという津波のリアルな音。「上がってー!」「早く―!」「うあーっ!」「地獄だ…」、人々の悲鳴や叫び、言葉にならないため息。ホームビデオのその映像は撮っている人の現実の心を映し出し、見ている側の心も思わず固まる。6年前、こんな現実があった。それを改めて突き付けられた。6年前の自分の気持ちを、ゆっくりと思い返す。阪神淡路大震災の時に感じた揺れと同質のものを感じ、すぐにテレビを見たこと。襲い来る津波をヘリが上空から追い、そのまま空港を飲み込んでいったそのシーンは、そのすぐ北の海岸公園で冒険遊び場づくりをしていたぼくの友人の安否を不安にさせた。すぐ連絡を取ったが、つかない焦りと不安。3日後にその彼が連絡をくれ、「自分は大丈夫。子どもに遊びが大事だって、天野さん全国に伝えて!」と叫ばれた衝撃。その晩、ぼくの知り合いの共同通信の記者に伝え、一晩で書いた記事。(後日掲載)原発の衝撃もすさまじかった。遊び場づくりに現地に向かおうにも、福島を通らなければならない。初めて現地に入った4月3日。海に向かう道を走っていたら、突然開けた視界に飛び込んだ壊滅した町。テレビで見る者とそれは、まったく風景を異にしていたこと。さまざまなことがよみがえってきた。HKKも3月11日を控え、また震災関係の番組がちらほら放送している。その中で、気仙沼に住む青年が話していた。ボランティアで来ていた若者が、気仙沼の良さをたくさん感じて福井から移住してきたのだという。絶望的だった状況から、その若者が救ってくれたと。「自分がここに存在することの意味を、外から来た人たちが教えてくれた」。阪神淡路大震災で神戸市長田区に遊び場をつくったとき、折れそうになる心を救ってくれた言葉がある。地元鷹取教会の神田神父が言った言葉だ。「復興は、元に戻すことをいうわけではない。震災があり、これだけ世界中から英知が集まっている。これを私たちは頂き、まったく別の永田を生みなおすのだ。」生まれ直す東北、その道はまだ半ばだ。 2017-03-11T12:31:00+09:00 「なにこれ」「なんなんだよ」「はぁ?」「なんだこれ」「おわった」・・・・・5分にわたる映像には、この言葉だけが繰り返されていた。その映像には、津波がみるみるカサを増し、次々と全てを呑み込んでいくさまが映されていた。今月の11日で6年目を迎える、東日本大震災。ネットで改めて検索をかけると、膨大な数のビデオがあった。それを3時間ほど見た。津波の激しさを印象付けるためか、迫力のある音楽が付けられきちんと編集されたものも多かった。けれど、海が押し寄せるゴウゴウという音に混ざるガリッバギバギという津波のリアルな音。「上がってー!」「早く―!」「うあーっ!」「地獄だ…」、人々の悲鳴や叫び、言葉にならないため息。ホームビデオのその映像は撮っている人の現実の心を映し出し、見ている側の心も思わず固まる。6年前、こんな現実があった。それを改めて突き付けられた。6年前の自分の気持ちを、ゆっくりと思い返す。阪神淡路大震災の時に感じた揺れと同質のものを感じ、すぐにテレビを見たこと。襲い来る津波をヘリが上空から追い、そのまま空港を飲み込んでいったそのシーンは、そのすぐ北の海岸公園で冒険遊び場づくりをしていたぼくの友人の安否を不安にさせた。すぐ連絡を取ったが、つかない焦りと不安。3日後にその彼が連絡をくれ、「自分は大丈夫。子どもに遊びが大事だって、天野さん全国に伝えて!」と叫ばれた衝撃。その晩、ぼくの知り合いの共同通信の記者に伝え、一晩で書いた記事。(後日掲載)原発の衝撃もすさまじかった。遊び場づくりに現地に向かおうにも、福島を通らなければならない。初めて現地に入った4月3日。海に向かう道を走っていたら、突然開けた視界に飛び込んだ壊滅した町。テレビで見る者とそれは、まったく風景を異にしていたこと。さまざまなことがよみがえってきた。HKKも3月11日を控え、また震災関係の番組がちらほら放送している。その中で、気仙沼に住む青年が話していた。ボランティアで来ていた若者が、気仙沼の良さをたくさん感じて福井から移住してきたのだという。絶望的だった状況から、その若者が救ってくれたと。「自分がここに存在することの意味を、外から来た人たちが教えてくれた」。阪神淡路大震災で神戸市長田区に遊び場をつくったとき、折れそうになる心を救ってくれた言葉がある。地元鷹取教会の神田神父が言った言葉だ。「復興は、元に戻すことをいうわけではない。震災があり、これだけ世界中から英知が集まっている。これを私たちは頂き、まったく別の永田を生みなおすのだ。」生まれ直す東北、その道はまだ半ばだ。 2月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1690525 熊本地震の後、プレーカー(命名:おもしろかー)を贈ったということは昨年9月に報告した。その送り先の方が、つい先日の益城町のようすを写真で送ってくださった。その写真を見て、少なからぬショックを受けた。10カ月がたつというのに、まだ、瓦礫が手つかずなのだ。送ってくださった方は「片付いたところもあるが多くはまだ手がついていない」のだと言う。この町に住んでいた多くの方が、この町の中で避難所暮らしを行っている。いつまでもこの光景を目にせざるを得ない状況が続いていることになる。大切な家族との思い出が、あの瓦礫の中にぎっしりと詰まっている。無数とも思える余震は今年になっても衰えず、震度3以上の地震がすでに7回も起きている。震災後の、記録的な集中豪雨もあった。なんとか取り出したくても、もうどうにもならない想いもあるだろう。その気持ちはどんなものなのだろうかと思うと、写真を見ながら本当に切なさがこみ上げる。けれどそんな中、おもしろかーで行った先での光景をこう報告してくれた。「~(前略)~ようやく、午後になって雨がやみ、集会所の外で遊具を広げると、前回も来たという子(小学3~4年?)が、すぐに来て、大声で「おもしろかーが来ましたよ~、みんなきてくださ~い!」と宣伝してくれるほどでした。就学前の兄弟も遊びに来ましたが、すこしストレスが溜まっているようで、破壊的な遊びを好んでいるようにも見受けられ、一緒に行ったスタッフと「サンドバッグとか持ってきて、好きなだけ叩いたり蹴ったりできるようにするのもいいかもね」と話していました。~(後略)~」ちょっと、感動だった。子どもが自分から宣伝に走ってくれるということは、本当に歓迎しているという証だからだ。弾む気持ち、みんなと遊びたいという喜び。おもしろかーが現れたときのその子の気持ちが、色とメロディを伴って見えるようだ。スタッフの心意気が素晴らしい。ストレスが溜まっていると感じるや、サンドバッグを持ってくるのもいいかも、と思いいたる。かなり乱暴そうなシーンがあったと見受けられるが、それを「ダメなこと」としてではなく、しっかり発散させてあげたいという受け止めがごく自然に行われている。「この人たちの手に、おもしろかーが渡ってよかった!」本当にそう感じた。子どもにとって最大の環境は、実は大人だ。その大人の受け止めが柔らかいことが、子どもの心のケアを一層促進させる。プレーカーは、実はそのコミュニケーションを促すツールであるだけなのかもしれない。 2017-03-11T12:30:00+09:00 熊本地震の後、プレーカー(命名:おもしろかー)を贈ったということは昨年9月に報告した。その送り先の方が、つい先日の益城町のようすを写真で送ってくださった。その写真を見て、少なからぬショックを受けた。10カ月がたつというのに、まだ、瓦礫が手つかずなのだ。送ってくださった方は「片付いたところもあるが多くはまだ手がついていない」のだと言う。この町に住んでいた多くの方が、この町の中で避難所暮らしを行っている。いつまでもこの光景を目にせざるを得ない状況が続いていることになる。大切な家族との思い出が、あの瓦礫の中にぎっしりと詰まっている。無数とも思える余震は今年になっても衰えず、震度3以上の地震がすでに7回も起きている。震災後の、記録的な集中豪雨もあった。なんとか取り出したくても、もうどうにもならない想いもあるだろう。その気持ちはどんなものなのだろうかと思うと、写真を見ながら本当に切なさがこみ上げる。けれどそんな中、おもしろかーで行った先での光景をこう報告してくれた。「~(前略)~ようやく、午後になって雨がやみ、集会所の外で遊具を広げると、前回も来たという子(小学3~4年?)が、すぐに来て、大声で「おもしろかーが来ましたよ~、みんなきてくださ~い!」と宣伝してくれるほどでした。就学前の兄弟も遊びに来ましたが、すこしストレスが溜まっているようで、破壊的な遊びを好んでいるようにも見受けられ、一緒に行ったスタッフと「サンドバッグとか持ってきて、好きなだけ叩いたり蹴ったりできるようにするのもいいかもね」と話していました。~(後略)~」ちょっと、感動だった。子どもが自分から宣伝に走ってくれるということは、本当に歓迎しているという証だからだ。弾む気持ち、みんなと遊びたいという喜び。おもしろかーが現れたときのその子の気持ちが、色とメロディを伴って見えるようだ。スタッフの心意気が素晴らしい。ストレスが溜まっていると感じるや、サンドバッグを持ってくるのもいいかも、と思いいたる。かなり乱暴そうなシーンがあったと見受けられるが、それを「ダメなこと」としてではなく、しっかり発散させてあげたいという受け止めがごく自然に行われている。「この人たちの手に、おもしろかーが渡ってよかった!」本当にそう感じた。子どもにとって最大の環境は、実は大人だ。その大人の受け止めが柔らかいことが、子どもの心のケアを一層促進させる。プレーカーは、実はそのコミュニケーションを促すツールであるだけなのかもしれない。 1月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1589905 明けましておめでとうございます。昨年暮れ、大掃除をしていたら、思いがけないものが出てきた。阪神淡路大震災の時の遊び場づくりの記録、「神戸にめちゃおもろい遊び場つくった!」が発掘されたのだ。膨大な書籍、資料を片付けていたところそれが紛れており、発見したときは思わず声を挙げたくらいだった。それというのも、もうなくしてしまっていたと思っていたからだった。そこには様々なことが書かれていた。多くは今でも覚えていることだが、中に思い出し考えさせられる言葉が拾われていた。1月17日発災、26日現地入り、2月3日遊び場立ち上げ、6月25日さよならパーティ。そして、遊びを通じて子どもたちがどのように快復していったのかを報告するためのシンポジウム「子どもたちの復興」を開いたのが、6月30日だった。そのシンポジウムの報告の中に、そのことは書かれていた。それは、地元神戸のボランティアが言った言葉だった。「地元のボランティアは、系統だった子どもとのかかわり方を知らない。多くのボランティアが去っていく中、どのように受け継いでいったらいいのか」その時はもちろん、ぼくたちの考えや姿勢、方法など、伝えられることは伝えた。けれど、本当に不安そうだったその人が思い起こされた。「震災があったからと言って、震災以前からやっていることしかできない」。これは、東日本大震災後、多くの活動者が感じ話していたことだ。つまり、例えば子どものことをしようとする人は、震災以前からなにがしか子どもに関係することをやっていた人にほぼ限られる、という実感だ。平常時に子どもの視点がなければ、震災があってもそこには向かない。逆に、平常時に抱えていた問題は、震災後に噴出する。これも、阪神淡路大震災からぼくが学んだことだった。6月いっぱいで活動終了したのも、実はこれが大きな理由の一つだった。これ以上続けたら、震災以前からあった巨大な課題と向き合わざるを得なくなる。そうしたら、東京に帰る機会はなくしてしまう。平常時から取り組んでおくことの重要性、それを報告書を読みながら、改めて思いなおした。日本での冒険遊び場の生みの親である大村虔一、璋子夫妻。この記録紙を作ってくださったのは、その大村璋子さんだった。璋子さんが書いた編集後記の最後に、こう書かれていた。「私のような大人には、こんなに子どもを楽しませることは到底できません。私にできるのは、子どもや若い人の元気な様子を記録にとどめることぐらいではないかと思って、この記録づくりに関わりました。」やれることは、どこにでも誰にでもある、そう教えてくれていた。 2017-01-07T18:29:00+09:00 明けましておめでとうございます。昨年暮れ、大掃除をしていたら、思いがけないものが出てきた。阪神淡路大震災の時の遊び場づくりの記録、「神戸にめちゃおもろい遊び場つくった!」が発掘されたのだ。膨大な書籍、資料を片付けていたところそれが紛れており、発見したときは思わず声を挙げたくらいだった。それというのも、もうなくしてしまっていたと思っていたからだった。そこには様々なことが書かれていた。多くは今でも覚えていることだが、中に思い出し考えさせられる言葉が拾われていた。1月17日発災、26日現地入り、2月3日遊び場立ち上げ、6月25日さよならパーティ。そして、遊びを通じて子どもたちがどのように快復していったのかを報告するためのシンポジウム「子どもたちの復興」を開いたのが、6月30日だった。そのシンポジウムの報告の中に、そのことは書かれていた。それは、地元神戸のボランティアが言った言葉だった。「地元のボランティアは、系統だった子どもとのかかわり方を知らない。多くのボランティアが去っていく中、どのように受け継いでいったらいいのか」その時はもちろん、ぼくたちの考えや姿勢、方法など、伝えられることは伝えた。けれど、本当に不安そうだったその人が思い起こされた。「震災があったからと言って、震災以前からやっていることしかできない」。これは、東日本大震災後、多くの活動者が感じ話していたことだ。つまり、例えば子どものことをしようとする人は、震災以前からなにがしか子どもに関係することをやっていた人にほぼ限られる、という実感だ。平常時に子どもの視点がなければ、震災があってもそこには向かない。逆に、平常時に抱えていた問題は、震災後に噴出する。これも、阪神淡路大震災からぼくが学んだことだった。6月いっぱいで活動終了したのも、実はこれが大きな理由の一つだった。これ以上続けたら、震災以前からあった巨大な課題と向き合わざるを得なくなる。そうしたら、東京に帰る機会はなくしてしまう。平常時から取り組んでおくことの重要性、それを報告書を読みながら、改めて思いなおした。日本での冒険遊び場の生みの親である大村虔一、璋子夫妻。この記録紙を作ってくださったのは、その大村璋子さんだった。璋子さんが書いた編集後記の最後に、こう書かれていた。「私のような大人には、こんなに子どもを楽しませることは到底できません。私にできるのは、子どもや若い人の元気な様子を記録にとどめることぐらいではないかと思って、この記録づくりに関わりました。」やれることは、どこにでも誰にでもある、そう教えてくれていた。 12月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1568559 11月22日朝6時ころ、福島県沖でM7,3、震度6弱の地震があった。津波警報が出て、大変な騒ぎとなった。「ビビビビビビビ・・・!」テレビから流れる警報音。「すぐににげて!」というテロップ。繰り返されるアナウンサーの「すぐに逃げてください!」という緊張した声。誰もが、2011年3月11日の津波を思い起こしたに違いない。その日の午後気仙沼の友人と連絡を取ったら、ついさっきまで警報が鳴りっぱなしだったのだという。おそらく、かなり強い緊張を地元の人は強いられたと思う。子どももそうだ。一斉に鳴る携帯の警報と、まちの警戒警報。悪夢を思い起こした人や子どもがどれだけいたことかと思うと、これも胸が痛む。大事なく済んだようで、本当によかった。10月21日に起きた、震度6弱の鳥取県中部地震。この地震では、それが起きるまで活断層は発見されていなかったという。未知の活断層が動いたのだろう。さらに、こうした地震は他でも起きると報道があった。そこまでは見た記憶があるが、その後の報道はさっぱりだ。住居は一部損壊を入れると13,000棟を上回っているのを見ても、被害は決して小さくはない。死者が出なかったからなのだろうか。気象庁の鳥取県中部地震をネットで調べた。8月24日から12月2日までの、有感地震の数字があった。なんと300件近く続いており、震度3以上は29回、およそ1割に上る。さらに、震度3の地震は、今も熊本で続いていた。ついでに調べたら、全国では震度4以上の地震がこの3カ月で50回を超えるほど起きていた。まさに、地震大国!!報道の重要性を、改めて思った。地震ではないが、11月末、青森県と新潟県で相次ぎ高病原性鳥インフルエンザが見つかった。発見された近縁の養鶏場は、他人事では済まないだろう。野鳥が媒介すると考えられるため、離れていたって打つ手が完璧にはない。万一、突然変異が起き人に感染するようになったら、これは一大事だ。おそらくその類のウイルスに対する抗体を、人は持っていない。つまり、なすすべがない。ウィルス感染してで勝てる戦争に勝てず、歴史が決まったという話も聞く。地震と同じ、これも自然の猛威の一つなのだ。年末、さらなる災害が起きることなく新年を迎えられることを心から願う。※今月、管理人の都合でブログ更新が遅くなり失礼致しました。 2016-12-17T22:20:00+09:00 11月22日朝6時ころ、福島県沖でM7,3、震度6弱の地震があった。津波警報が出て、大変な騒ぎとなった。「ビビビビビビビ・・・!」テレビから流れる警報音。「すぐににげて!」というテロップ。繰り返されるアナウンサーの「すぐに逃げてください!」という緊張した声。誰もが、2011年3月11日の津波を思い起こしたに違いない。その日の午後気仙沼の友人と連絡を取ったら、ついさっきまで警報が鳴りっぱなしだったのだという。おそらく、かなり強い緊張を地元の人は強いられたと思う。子どももそうだ。一斉に鳴る携帯の警報と、まちの警戒警報。悪夢を思い起こした人や子どもがどれだけいたことかと思うと、これも胸が痛む。大事なく済んだようで、本当によかった。10月21日に起きた、震度6弱の鳥取県中部地震。この地震では、それが起きるまで活断層は発見されていなかったという。未知の活断層が動いたのだろう。さらに、こうした地震は他でも起きると報道があった。そこまでは見た記憶があるが、その後の報道はさっぱりだ。住居は一部損壊を入れると13,000棟を上回っているのを見ても、被害は決して小さくはない。死者が出なかったからなのだろうか。気象庁の鳥取県中部地震をネットで調べた。8月24日から12月2日までの、有感地震の数字があった。なんと300件近く続いており、震度3以上は29回、およそ1割に上る。さらに、震度3の地震は、今も熊本で続いていた。ついでに調べたら、全国では震度4以上の地震がこの3カ月で50回を超えるほど起きていた。まさに、地震大国!!報道の重要性を、改めて思った。地震ではないが、11月末、青森県と新潟県で相次ぎ高病原性鳥インフルエンザが見つかった。発見された近縁の養鶏場は、他人事では済まないだろう。野鳥が媒介すると考えられるため、離れていたって打つ手が完璧にはない。万一、突然変異が起き人に感染するようになったら、これは一大事だ。おそらくその類のウイルスに対する抗体を、人は持っていない。つまり、なすすべがない。ウィルス感染してで勝てる戦争に勝てず、歴史が決まったという話も聞く。地震と同じ、これも自然の猛威の一つなのだ。年末、さらなる災害が起きることなく新年を迎えられることを心から願う。※今月、管理人の都合でブログ更新が遅くなり失礼致しました。 11月 http://utaoufor311.grupo.jp/blog/1527874 11月には、度肝を抜かれる出来事があった。アメリカ大統領選挙だ。何のかんのと言ったって、あれだけ差別を含んだ暴言を吐く人が大統領になるなんて、世界中が本気で思っていなかったと思う。それだけアメリカ人の怒りが深いということの証だと思うのだが、それが票として反映されるのがアメリカならではなのだろうという気もした。日本では、原発の再稼働が次々と許可されている。大元の福島第一原発が、その終息を全く予測すらできない状況だというのに。廃炉への経費は膨らむばかりで、それを送電料に乗せるのだという案が浮上している。うまい案だ。送電料ならば、東京電力から電気を買っていなくても課金できる。原発が嫌さに民間から電気を買うように切り替えた人の気持ちなど、お構いなしだ。沖縄でも、まるで人扱いされていないシーンがテレビから時々流れる。「土人」という言葉。それ自体が差別用語だとはぼくも断定しないが、その言葉を使ったシーンを見ればわかる。そこにどれだけの侮蔑を込めていたか。どす黒く渦巻いた言霊を、差別ではないと沖縄相がかばう。沖縄相なのに、沖縄県民の立場からの言霊は、そこにはない。そして、それでも現政権は選挙で大勝する。慎み深い民族、ニッポンジン。仙台市では、ようやく仮設住宅から災害復興市営住宅に全員が移れたのだという。一応、これで住まいの復興にはひと段落が付いた格好だ。けれど、仮設で暮らすうちにできたお隣さん。復興住宅に入るということは、その人たちとの別れをまた意味したはずだ。この5年で、一体何度、別れを経験したのだろう。この世での一番の孤立は、誰からも自分の存在を忘却されることだろう。くだんの大統領は、そこを突いた。「私が大統領になったら、忘れ去られた人は一人もいなくなる。」涙した人も多かったのではないかと思われる、このフレーズ。災害は、その被災規模を示すのに人数や倒壊や流出家屋数で示すが、そこにはひとつひとつの人生がある。アメリカの大統領は新たな不安(しかも大いなる!)ではあるが、忘れないと言い切った。おそらくは、だから勝った。日本の政府は、どんどん忘却しているように見える。 2016-11-12T00:11:00+09:00 11月には、度肝を抜かれる出来事があった。アメリカ大統領選挙だ。何のかんのと言ったって、あれだけ差別を含んだ暴言を吐く人が大統領になるなんて、世界中が本気で思っていなかったと思う。それだけアメリカ人の怒りが深いということの証だと思うのだが、それが票として反映されるのがアメリカならではなのだろうという気もした。日本では、原発の再稼働が次々と許可されている。大元の福島第一原発が、その終息を全く予測すらできない状況だというのに。廃炉への経費は膨らむばかりで、それを送電料に乗せるのだという案が浮上している。うまい案だ。送電料ならば、東京電力から電気を買っていなくても課金できる。原発が嫌さに民間から電気を買うように切り替えた人の気持ちなど、お構いなしだ。沖縄でも、まるで人扱いされていないシーンがテレビから時々流れる。「土人」という言葉。それ自体が差別用語だとはぼくも断定しないが、その言葉を使ったシーンを見ればわかる。そこにどれだけの侮蔑を込めていたか。どす黒く渦巻いた言霊を、差別ではないと沖縄相がかばう。沖縄相なのに、沖縄県民の立場からの言霊は、そこにはない。そして、それでも現政権は選挙で大勝する。慎み深い民族、ニッポンジン。仙台市では、ようやく仮設住宅から災害復興市営住宅に全員が移れたのだという。一応、これで住まいの復興にはひと段落が付いた格好だ。けれど、仮設で暮らすうちにできたお隣さん。復興住宅に入るということは、その人たちとの別れをまた意味したはずだ。この5年で、一体何度、別れを経験したのだろう。この世での一番の孤立は、誰からも自分の存在を忘却されることだろう。くだんの大統領は、そこを突いた。「私が大統領になったら、忘れ去られた人は一人もいなくなる。」涙した人も多かったのではないかと思われる、このフレーズ。災害は、その被災規模を示すのに人数や倒壊や流出家屋数で示すが、そこにはひとつひとつの人生がある。アメリカの大統領は新たな不安(しかも大いなる!)ではあるが、忘れないと言い切った。おそらくは、だから勝った。日本の政府は、どんどん忘却しているように見える。