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1月

明けましておめでとうございます。

昨年暮れ、大掃除をしていたら、思いがけないものが出てきた。
阪神淡路大震災の時の遊び場づくりの記録、「神戸にめちゃおもろい遊び場つくった!」が発掘されたのだ。
膨大な書籍、資料を片付けていたところそれが紛れており、発見したときは思わず声を挙げたくらいだった。
それというのも、もうなくしてしまっていたと思っていたからだった。

そこには様々なことが書かれていた。
多くは今でも覚えていることだが、中に思い出し考えさせられる言葉が拾われていた。
1月17日発災、26日現地入り、2月3日遊び場立ち上げ、6月25日さよならパーティ。
そして、遊びを通じて子どもたちがどのように快復していったのかを報告するためのシンポジウム
「子どもたちの復興」を開いたのが、6月30日だった。

そのシンポジウムの報告の中に、そのことは書かれていた。
それは、地元神戸のボランティアが言った言葉だった。
「地元のボランティアは、系統だった子どもとのかかわり方を知らない。
多くのボランティアが去っていく中、どのように受け継いでいったらいいのか」
その時はもちろん、ぼくたちの考えや姿勢、方法など、伝えられることは伝えた。
けれど、本当に不安そうだったその人が思い起こされた。

「震災があったからと言って、震災以前からやっていることしかできない」。
これは、東日本大震災後、多くの活動者が感じ話していたことだ。
つまり、例えば子どものことをしようとする人は、
震災以前からなにがしか子どもに関係することをやっていた人にほぼ限られる、という実感だ。
平常時に子どもの視点がなければ、震災があってもそこには向かない。
逆に、平常時に抱えていた問題は、震災後に噴出する。
これも、阪神淡路大震災からぼくが学んだことだった。
6月いっぱいで活動終了したのも、実はこれが大きな理由の一つだった。
これ以上続けたら、震災以前からあった巨大な課題と向き合わざるを得なくなる。
そうしたら、東京に帰る機会はなくしてしまう。
平常時から取り組んでおくことの重要性、それを報告書を読みながら、改めて思いなおした。

日本での冒険遊び場の生みの親である大村虔一、璋子夫妻。
この記録紙を作ってくださったのは、その大村璋子さんだった。
璋子さんが書いた編集後記の最後に、こう書かれていた。
「私のような大人には、こんなに子どもを楽しませることは到底できません。
私にできるのは、子どもや若い人の元気な様子を記録にとどめることぐらいではないかと思って、
この記録づくりに関わりました。」
やれることは、どこにでも誰にでもある、そう教えてくれていた。



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