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1月

新年を迎えた。
震災から、5回目を数える。
次の3月11日からは、6年目に突入する。
前回に引き続いて、今回も東北でプレーカー一族を走らせているメンバーの話をしたい。
中心メンバーは3人。

本部長を務めるのは、須永力(すながつとむ/ぶんちゃ)。
「あそぼっかー」に搭乗し、おおまかには福島県を担当している
彼はぼくたちが運営に当たる、世田谷の遊び場、駒沢はらっぱプレーパークで活動を開始した。
もう24年ほど前のことだ。
そして、阪神淡路大震災が1995年1月17日に起きる。
彼は、子どもが現場でつぶやいた「震災の番組ばかりで(テレビが)つまんない」との一言に敏感に反応し、
当時3つあった現場のプレーリーダーたちに緊急の招集をかけた。
「これはテレビゲームではないのに…おれたち自身が子どもに伝えられる言葉を持っていない。」
「子どもに被災地の生の声を伝え、ともに考えていきたい」
との思いから、阪神淡路大震災への緊急救援を決定した。
神戸の遊び場は、この須永が立ち上げたと言っていい。

もう一人は、廣川和樹(ひろかわかずき/かずき)。
「あそぶーぶー」に搭乗し、主に宮城県を担当している。
企業に身を置いていたが、自身にもっと手ごたえがあることをやりたいとぼくたちが行った研修に参加、
そのままプレーカーの搭乗プレーリーダーとして、会社を辞めて参加した。

最後の一人は、神林俊一(かんばやししゅんいち/かんぺー)。
「あそびたいや」に搭乗し、主に宮城県北部と岩手県を担当している。
羽根木プレーパークで子ども時代を過ごし、そこで育った。
東日本大震災後、遊び場をつくると言ったら、強い希望で初めから参加してきた。
海外のワーキングホリデー参加を目指してアルバイト生活を送っていた彼は、
暮らしの場のほとんどを気仙沼に移し、
のちにあそびーばーとして立ち上がっていくその始まりから軌道に乗るまで、
そしてその取り組みを地元に引き継ぐまで、プロセスをすべて体験してきた青年だ。

これまでは、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会が被災地復興支援事業と位置づけ、
その地元に足場を持つために作った「東北オフィス」スタッフとして働いてきた。
今は、そこにサポートメンバー2名を加えてプレーカーを走らせている。
3月までは、日本ユニセフ協会の支援を受け、東北オフィスは残される。
しかし、4月以降は、自立の道を歩まなくてはならない。
彼らは、そのための一般社団法人を設立した。
その名も、『プレーワーカーズ』。

子どもにとって、遊ぶこと以上に彼らの魂を震えさせることはない。
それを十分に知っている彼ら。
彼らが十分に活躍できること、それはすなわち、子どもが十分に遊べることを意味する。
プレーカー一族の活動の場が限りなく広がっていくことを願って、今、その準備を進めている。



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